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熊野学事始(第二話)――「教養」の来た道(97) 天野雅郎

さて、今回も前回に引き続き、熊野(くまの)の話である。そこで、まず恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)に御出座(音読→ゴシュツザ、訓読→おでまし)を願い、この語を調べてみると、そこには最初に「紀伊半島の南部、熊野川流域と熊野灘に面する一帯の地域名。三重・和歌山両県にまたがり、旧牟婁(むろ)群域に相当。古代から霊験の地で熊野三社や那智滝など名勝が多い」という語釈が掲げられている。また、さらに続けて「牟婁」を引くと、そこには「紀伊国の旧郡名。明治四年(一八七一)の廃藩置県により、東部は度会県(のち三重県)、西部は和歌山県に分割編入され、同一二年、三重県牟婁郡を南北、和歌山県牟婁郡を東西に分割した。尾鷲市、熊野市、新宮市、田辺市(一部を除く)も含まれていた」と書かれていて、熊野の歴史の概略(あらまし)が分かる。

ところで、このようにして使われている、牟婁(むろ)という語が元来、どのような語であるのか、僕は気になっている。なにしろ、この牟婁という漢字は当然、当字(あてじ=宛字)であって、牟(ム→呉音、漢音→ボウ)にしても、婁(ロ→呉音=ル、漢音→ロウ)にしても、そこから聞こえてくるのは牛の鳴き声(牟)であったり、そこから見えてくるのは「女の髪を上に高く巻きあげて重ねた形」(婁)であったり(白川静『字統』1984年、平凡社)して、このような漢字自体の意味から、この牟婁という語の由来を説き明かすことは困難であったから。と言うことは、この牟婁(むろ)という語を日本語で、それも、日本語以前の日本語で、君や僕は解き明かさなくてはならず、その上で、はじめて君や僕は牟婁(むろ)という、この、日本以前の日本へと、辿り着くことも可能になる。

ただし、例えば目下、僕の手許には別の、これとは違った説明をしている、もう一つの漢和辞典(『漢字源』2006年、学習研究社)も置かれていて、そこには「女性を捕らえて、じゅず〔数珠〕つなぎにして〔、〕ひっぱるさまであろう」とする、いささか物騒な、婁の字の説明が施されている。ちなみに、この辞典の編者の代表は、今は亡き、藤堂明保(とうどう・あきやす)であるが、彼が生まれた三重県も、もともと「伊勢・伊賀・志摩の三か国と紀伊国の東部とからなる」(『日本国語大辞典』)県であり、そこには前述の通りに、熊野の一部も含まれているし、そもそも三重県が廃藩置県の時点では、安濃津(あのつ)県と度会(わたらい)県に分かれ、それが翌年、前者を三重県と改称し、さらに4年後、後者を合併して現在の三重県が成立することも、君や僕は、覚えておく必要がある。

要するに、このような形で現在の、和歌山県や三重県が産声(うぶごえ=初声)を上げたのは、たかだか今から140年余り前の、まさしく「廃藩置県」を契機(moment=運動原因)とする、きわめて新しい出来事であり、逆に言えば、それは君や僕の暮らしている、この和歌山県が一人の人間の、寿命(human life span=人生期間)の限界(?)程度の時間しか、いまだ過ごしてはいない、という事実の前に君や僕が立たされている、と言うことに他ならない。裏を返せば、そこには和歌山県という名によっては、決して納まりの付かない、様々な歴史や文化や、多くの人の営(いとな=暇無)みが、複雑に絡まり合い、折り畳まれ、堆積を遂げているのであって、その堆積の典型こそが、目下、君や僕が「熊野」という名で、あるいは「牟婁」という名で呼んでいる、その当の場所なのである。

言い換えれば、そのような堆積(accumulation)の象徴(シンボル)として、まっさきに君や僕が思い浮かべるのは、そこに山々が深々と、延々と連なり、その山脈(やまなみ=山並→山波)に取り巻かれることで、そこに何かが、密(ひそ=秘・私・陰)かに、潜(ひそ)んでいるかのような雰囲気や、気配を濃厚に漂わせている場所であったに違いない。例えば、それは前回も触れたように、あの有間皇子(ありま・の・みこ)が「牟婁温泉」(むろのゆ)に出掛け、そこで病(やまい)が突如、癒(いや)されることになる経験とも、無縁のものではなかったはずである。事実、この折の経験を『日本書紀』(巻第二十六)は、その「国(=牟婁)の体勢」(音読→タイセイ、訓読→なり)を彼が絶賛し、その光景を眺めるだけで、すっかり彼の病が癒される、ある種の奇蹟として報告している。

もちろん、この報告自体を『日本書紀』は、有間皇子の「陽狂」(音読→ヨウキョウ、訓読→いつわりたぶれ)として記載しているのであって、そのプロット(plot→筋立→たくらみ)に従えば、この言葉自体が嘘八百(うそはっぴゃく)の、真赤(まっか)な嘘であったことにも、なりかねない。が、それならば実際に、この「紀温泉」(きのゆ)へと斉明(サイメイ)天皇が、皇太子(音読→コウタイシ、訓読→ひつぎのみこ)である中大兄皇子(なかのおおえ・の・みこ)を伴い、行幸に赴(おもむ=面向)くことなど、ありえない話であり、それは翻(ひるがえ)れば、この「牟婁温泉」が当時の、いわゆる都人(みやこびと)にとっては、まさしく観光地(sightseeing spot)として知られ、世に聞こえた、言ってみれば、常識(common sense)に合致する場所であったからに他ならない。

おまけに、この場所には当時、すでに「牟婁」という漢字が当てられ、宛がわれていた訳であるから、この漢字自体の意味を踏まえるならば、ひょっとすると「牟婁」は有間皇子の、捕縛や護送や、現代風に言えば、裁判や処刑には相応しい場所であり、ひいては、それが有間皇子のみならず、この頃の都人(=宮廷人・都会人)に対しても、彼らの宮廷生活や都市生活の中で生まれた、桎梏(音読→シッコク、訓読→かせ=手かせ・足かせ)と重なり合い、そのような拘留や束縛のイメージを、如実に表現する場所であったのかも知れない。もっとも、そうであったからこそ、そのような桎梏や拘留や束縛の果てに、彼らが自分自身の解放や自由や、その悦楽を、この場所を通じて、場合によっては、この場所の向こう側に見出したとしても、それは彼らの、これまた常識であったはずである。

そして、そのような共通感覚(コモン・センス)を作り上げて、広める際に必要とされたのが、いわゆる「神話」や「伝説」や「昔話」を始めとする、その名の通りの物語であった。なお、ここで「その名の通りの物語」と言ったのは、この物語(ものがたり)という語を字面(じづら)に即して、そのまま「もの」を語る行為であると共に、むしろ「もの」に語る行為であり、さらに「もの」が語る行為であることを、しっかり君には受け止めて、理解しておいて欲しいからである。そのためにも、僕は今回、このブログの末尾に当たり、君に『万葉集』(巻第二)の中から、例の「有間皇子、自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)結ぶ歌」を筆頭とする、合わせて6首の挽歌(バンカ→死者の棺〔ひつぎ=柩〕を引く時の、葬送と哀悼の歌)を抜き出し、君の用に、供することにしたい。

 

磐代(いはしろ:原文→磐白)の/浜松が枝を/引き結び/真幸(まさき)くあらば/亦(また)還(かへ)り見む(141)有間皇子

家(いへ)にあれば/笥(け)に盛る飯(いひ)を/草枕(くさまくら)/旅にしあれば/椎(しひ)の葉に盛る(142)同上

磐代の/崖(きし)の松が枝/結びけむ/人は反(かへ)りて/復(また)見けむかも(143)長忌寸奥麻呂

磐代の/野中(のなか)に立てる/結び松/情(こころ)も解(と)けず/古(いにしへ)念(おも)ほゆ(144)同上

鳥翔(つばさ)成す/あり通(がよ)ひつつ/見らめども/人こそ知らね/松は知るらむ(145)山上憶良

後(のち)見むと/君が結べる/磐代の/小松が末(うれ)を/又(また)見けむかも(146)柿本人麻呂〔歌集〕

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