ホームメッセージ「教養の森」を旅する人に ―― cicerone 2017 天野雅郎

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「教養の森」を旅する人に ―― cicerone 2017 天野雅郎

【教養の森 cicerone 2017 より転載】

この小冊子(パンフレット)は――と書いて、ふと気になったので、調べてみると、どうやら英語ではパンフレット(pamphlet)という言い方をするよりも、むしろブローシュア(brochure)という語を、フランス語に遡る形で使う方が一般的なようである。それならば、このようにして「教養の森」センターが一年に一度、君を始めとする和歌山大学の学生諸君、一人一人の手に送り届けている、この「チチェローネ」という小冊子もパンフレットではなく、ブローシュアと呼んだ方が好都合なのではなかろうか。と、そのように君が感じるとすれば、よほど君は「長い物には巻かれろ」式の人間であるのか、それとも君はパンフレットが、かつてヨーロッパの中世において人気を博した恋愛詩(Pamphilus, seu de Amore)に、その起源を有する語であることを知らなかったのではなかろうか。

 

ともかく、このようにして言葉には、すべての言葉に意味があり、その由来がある。したがって、その意味や由来を君が、仮に理解していなければ、例えば「チチェローネ」という......この、舌を噛みそうなイタリア語も、これを英語でガイド(guide)とか、その手引書(ガイドブック)とか、置き換えた方が簡単であり、分かりやすいのではないか知らん、と君は考えるに決まっている。でも、そのような置き換えをしたら最後、君は「チチェローネ」(cicerone)という語に流れ込んでいる、古き、よきヨーロッパの教養(ひいては、教養教育)の源泉である、キケロ(Cicero)のことを想い起こすには至らないであろうし、そのような教養人の衣鉢を継ぎ、人間の教養(culture→cultivation)とは「土の耕し」(agricultura=農業)であると同時に「心の耕し」(cultura animi)である、と主張する「教養の森」センターの声も、君の耳に届く機会を、失ってしまうに違いない。

 

と言う訳で、この小冊子(パンフレット)は「チチェローネ」という名に拘泥し、そこに幾分、自戒や皮肉の情も絡ませつつ、君を始めとする和歌山大学の学生諸君、一人一人の手に送り届けようと、出版を続けているのであるが、それも実は、まだ君が高校生であった頃から数えて、わずかに四年目の春を迎えているに過ぎず、また、その編集と発行の役目を引き受けるべく「教養の森」センターが誕生したのも、ようやく今年(2017年)の秋(10月1日)で、まるまる五年を数えるに過ぎない。――翻れば、その頃の君が幼く、あどけない高校生の顔をしていた時分に、はじめて和歌山大学では「教養教育」の理念や実践を問い質して、まじめに考え直し、授業科目の内容や形態も含めて、一から「教養教育」に改革を施すための取り組みがスタートを切り、それが大学教育における二本の柱として、もう一方の「専門教育」と並ぶ位置づけを与えられることにもなったのである。

 

と、このようにして跡づけても、きっと君が高校生であった頃には、ほとんど「教養教育」も「専門教育」も正体不明の、理解不能のものであったに違いない。けれども、それが現在、大学生になった君にも一向に変わらず、そのまま該当するのであれば、それは至極、心配なことではあるまいか。......とは言っても、もともと大学教育が「専門教育」の同義語であることは、単純に君が自分自身の大学受験の理由を振り返ってみれば、すぐに察しの付く話であり、要するに君は何がしかの、それが教育者であれ経済人であれ技術者(エンジニア)であれ、はたまた観光経営や地域再生の専門家(エキスパート)であれ、ともかく、ある種の専門家(スペシャリスト)となるための知識や技能を手に入れ、身に付けるべく、この、和歌山大学の教育学部や経済学部やシステム工学部や、あるいは観光学部の入学試験を受け、これに合格し、その門を今、めでたく潜るに至っている次第。

 

もっとも、そのことによって君が、やがて将来の専門家(プロフェッショナル)となるための道を、これから歩き出すべき資格を手に入れたことにはなっても、それが同時に誰かの前(pro)で、きちんと君が君の職業(profession)や、その使命や責任について、これを公言し、確約し、宣誓する(profess)ことが叶うのか、どうかは別問題であり、そのような力が君の経験(experience)を通じて、君に備わり――それが熟練者(expert)の域にまで達した時に、ようやく君は自分自身を専門家と称することが出来るし、そのような君の成長を待って、君の周囲も君を専門家として迎え、遇するに至る訳である。その意味において、たった一つの、ほんの小さな、特殊(special)な知識や技能を身に付けるだけでも、君には相応の時間と、日々の鍛錬が求められているのであって、そのような自己学習(self-learning)のことを英語では、まさしく教育(education)と呼んでいる。

 

ちなみに、このようにして和歌山大学が「専門教育」のことを、まさしく「専門家になるための教育」(the art of being a professional)と言い換えているのは、そのためである。そして、そのために必要とされる技術や、技巧や技法を手に入れて、日本語で言えば技(わざ=業)を、英語で言えば「アート」を、やがて君が身に付けることが出来るように、君には君の所属する、それぞれの学部の提示する授業科目が、その名の通りの教育課程(カリキュラム)として位置づけられている。が、そのような教育課程を、さながら君が競走馬(curriculum→chariot)のような姿で走り(currere)......走り抜いたとしても、はたして君は運好く、その「アート」を手に入れることが叶うのであろうか。このように言い出すと、おそらく君も直ちに、この「アート」という英語を日本語に直せば、そこには技術と並んで芸術が、その姿を浮かび上がらせることに気が付いてくれるはず。

 

言い換えれば、このようにして大学には、それが中国の古代に端を発する、その名の通りの大学であっても、あるいはヨーロッパの中世以来の流れを汲む、いわゆるユニヴァーシティー(university←universitas)であっても、そこには歴史上、古代から中世へと、近代から現代へと引き継がれてきた、大学を大学とするための原則、と言おうか、鉄則が存在している。そして、それは取りも直さず、もっぱら大学が「専門教育」の場であってはならず、それを単に「専門家になるための教育」に終始させてはならない、という鉄則である。それと言うのも、そもそも大学とは君を、一人の専門家に育て上げると同時に、より広く、君を一人の「人間」に育て上げ、君が自分自身の頭と、心と体を使い、みずからが「人間」であることの意味や価値を問い、考え――その上で、君が君と共に生きる、多くの人を可能な限り、幸せにするための道を選び取るための場であったからである。

 

実際、そのような道(via)と、その道を旅する人(viator)のために、和歌山大学では「人間になるための教育」(the art of being a human)が準備されており、それは「教養の森」センターの英語名(Center for Human Enrichment)ともども、本学に独自の、固有の教育理念と教育実践に結び付いている。その意味において、君に和歌山大学が提供する「教養教育」とは、それが世間一般に罷り通っている、いわゆる基礎教育や共通教育とは......決定的に違う何かであることを、君には知って貰う必要がある。また、それは一人の人間が、その名の通りの「人間になるための教育」を受け、そこから次第に、より豊かな人間性(ヒューマニティー)を身に付けるべく、さまざまな経験を積み上げるのと同様に、この和歌山大学も昭和二十四年(1949年)の創設以来、実に六十年を超える歴史を経て、学び取り、辿り着いた、大学が大学であるための、必要不可欠な教養なのである。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

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