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おせっかいながら、大学生の必読書について 天野雅郎

今の大学生にとって、大学生になったら必ず読む本、読まなくてはならない本は、存在しているのであろうか。僕の周囲を見渡す限り、そのような本 (いわゆる「必読書」)は、存在していないように見受けられる。別段、それならそれでも構わないし、必読書であれ何であれ、いわゆる「必ず」が存在してい ない、実に自由な、気楽な時代に私たちが生きている以上、致し方の無い次第でもあろう。ただし、そのような趨勢が結果的に、今の大学生を大学生らしくな い、中途半端な状態(失敬)に留め、大学生になっても、ならなくても、ほとんど変わらない状態を産み出しているのであれば、それは少し、寂しいと言おう か、残念な気がしないではない。

もちろん、どのような時代にも「らしさ」と呼ばれるものは、男らしさであれ、女らしさであれ、それぞれの時代が紡ぎ出し、織り上げている幻想に他 ならず、そのような幻想に振り回される必要はない、と言えば言える。けれども、そのような幻想を抜きにして、私たちが生きていくことや、子供から大人にな ることは不可能であり、それ自体が幻想であることも否めない。それどころか、そのような「らしさ」は人間の成長にとって、ある種の不可抗力を伴い、圧倒的 な影響を私たちに及ぼしているのが実情である。例えば、ちょうど僕が大学生であった頃に読んだ本(小椋佳『渡良瀬逍遥』1977年、立風書房)の中の話 を、ここに想い起こそう。

それは、とある川の川底に、かつて神が置いた(とされる)謎の玉があり、その玉を水に潜り、垣間見ることのできた少年だけが、子供から大人へと成長するこ とを許される、という話であり、いわゆる「通過儀礼」の話であった。ところが、その際に興味深いのは、この玉を昔から今に至るまで、実際に目にした者は誰 も居らず、そのことを偽り、隠し合い、少年たちは大人へと姿を転じてゆく。そのような営みが、どれほど昔から繰り返されてきたのかは、誰も知らない。それ にも拘らず、今年も夏が来ると、少年たちは次々と川に飛び込み、水に潜り、やがて口々に「玉を見た」と叫びながら、子供から大人への第一歩を踏み出してゆ くのである。

この話を想い起こす度に、僕は子供が大人になることの残酷さや、その遣る瀬無さについて、首(こうべ)を垂れざるをえないが、それと同時に、このような 「通過儀礼」が存在しなかったとすれば、いったい私たちは何を出発点にして、何処に到達点を見据えて、子供から大人へと変貌を遂げることができるのであろ うか、と考え込まざるをえない。逆に言えば、このような形で何処にも存在せず、誰も見たことのない何かを、そのまま嘘(うそ)の中に包み込むことで、やっ と私たちは自分自身の人間形成をも保ち得ているのではなかろうか。その事実が、この物語に厳粛な、ある種の美しさと、明るさを与えている理由でもあったは ずである。

例えば、ふたたび僕が大学生であった頃、大袈裟に言えば、その証(あかし)として、僕は大学前の古本屋で三冊の本を買い求めている。ちなみに、その三冊の 本は西田幾多郎の『善の研究』と、阿部次郎の『三太郎の日記』と倉田百三の『愛と認識との出発』であり、いずれも明治時代の末年から、大正時代を中心にし て出版された本であった。当時、この三冊の本を買い求めることが、どのような時間軸に身を置くことになるのかを、僕は皆目、見当が付かなかったが、それを 現時点で振り返れば、いまだ僕が大学生として、いわゆる「大正教養主義」の系譜の中にいたことが分かる。その時間差が、わずか半世紀に過ぎなかった点も含 めて。

今の大学生にとって、このような昔話が何の興味も惹かないものであろうことは、僕も重々、承知している。それどころか、すでに大学の教員の多くにも、この ような教養観は受け継がれておらず、例えば上記の三冊の本を本棚に並べ、それを繁々と、どのような思いで僕が眺めていたのかは、想像を絶しているに違いな い。ましてや僕が、授業をサボって図書館に通い詰め、せっせと九鬼周造の『西洋近世哲学史稿』をノートに写し取っていたことなど、まったく訳の分からない 徒労としか見なされないであろう。僕自身は、単に戦前の京都帝国大学で行われていた、九鬼周造の講義に遅れ馳せながら、顔を出していたに過ぎなかったので あるが。

さて、この書評の紙幅も、そろそろ尽きようとしている。僕自身は普段、実は書評を読んだり、書いたりすることを好まない。いろいろ理由はあるが、手っ取り 早く言えば、僕には通常の書評が許容範囲としている、時間の射程が短すぎるからである。最近の、流行(はやり)の本を手短に紹介し、それを出汁(だし)に して、お茶を濁すような遣り方を僕は好まない。本を他人に紹介するのであれば、それは著者や出版社や刊行年や、そのような当座の関心を切り捨て、忘れた (かのように見える)ものであるべきではなかろうか。その意味において、僕は書評が原語(review)の通り、ふたたび(re)見る(view)もので あることを願って止まない。

最後に、もし今の大学生に対して、あえて「必読書」を挙げるとすれば、それは我が家(別称「天野図書館」)に来て、本に囲まれ、ゆっくり本の話をしてから にしようよ、と応じざるをえないが、それでも強いて、ここで一冊を挙げるとすれば、今日の気分は、アンドレ・コント=スポンヴィルの『ささやかながら、徳 について』(1999年)であろうか。僕自身は、このフランスの哲学者に対して何の面識も持たないが、不思議なことに、ある種の親近感や、曰く言い難い 「既視感」を抱かざるをえないことを告白して、今回は筆を擱く。この本が難しいのであれば、以下の本から読み始めても構わない。いずれも、出版社は紀伊國 屋書店である。

『愛の哲学、孤独の哲学』(2000年)
『哲学は、こんなふうに』(2002年)
『幸福は絶望のうえに』(2004年)

(初出:リトルネロ、第25号、2012年4月)

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