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MOTTAINAI ――「教養」の来た道(18) 天野雅郎

前回は「祝入学」という表題で、前々回は「祝卒業」という表題で、いささか儀式ばった、堅苦しい筆の起こし方をしてしまった分、文章も堅苦しいものになってしまい、君には恐縮である。――と書いた途端(とたん)に、またもや僕の文章が堅苦しいものになってしまうのは、なぜであろうか?おそらく、それは僕が、このような「恐縮」という漢語(それどころか、漢字)を使った瞬間に生じてしまう、文字通りの「恐れ」と「縮み」の感覚に由来するものであり、それが僕の生来の、性質と言おうか、体質と言おうか、いわゆる質(たち)に起因し、これを改善したり、改良したりすれば、それで一件、落着となる訳ではないことを、ぜひとも君には知って貰(もら)いたく、あえて今回も、きっと君には迷惑千万(せんばん)な、漢字や漢語や漢文の話を、僕は蒸し返さざるをえない。

とは言っても、そのことで君が、これまで以上に、漢字や漢語や漢文のことを嫌いになり、その結果、僕自身が君の「古典(classic=最高級品)離れ」の後押しをしてしまったのでは、元(もと=元金)も子(こ=利息)も無いから、せいぜい僕は頑張って、君が漢字や漢語や漢文のことを、少しでも好きになってくれるように、努力を傾ける積りではあるが、このような「古典(クラシック)離れ」は元(もと=元来)を正(ただ)せば、そこに一種の、文明論的(!)と称さざるをえないような傷(きず)……その名の通りに、君や僕の体が、それどころか、心が切(き)られ、刻(きざ)まれ、その跡(あと)が後々(あとあと)になっても痛み、疼(うず)き、君や僕を、ほとほと困惑させてしまうことになる、とても深い傷が隠されているのであるから、話は厄介(やっかい)である。

なお、そのような傷のことを昨今では、かつて古代のギリシア人が使っていたトラウマ(trauma)という語に置き換えることも多いから、君が望むのであれば、この語を使っても構わない。が、そのような置き換えはフランス人の、もともとピエール・ジャネが1887年に行ない、それをオーストリア人(と言うよりも、ユダヤ人)の、ジーグムント・フロイトが『精神分析入門』(1917年)の中で借り受けたからと言って、そのまま君や僕――要するに、いわゆる日本人の君や僕が真に受けて、まるで鸚鵡(オウム)返しのように繰り返すことは妥当なのか、どうか、しっかり君には考えて欲しいけれども、それと並んで、そもそも鸚鵡返しが和歌や連歌の返歌の技法であることも、君が知っているのであれば、それは飛び切り、奥床(おくゆか)しい話である、と僕には感じられるのであるが。

さて、僕は前回、例えば「勿体無い」という語が一見、漢語風の語でありながら、その語自体は私たちの国で生まれ、育った、その意味においては漢語を生みの親とし、和語を育ての親とする、言ってみれば、漢和折衷語とでも呼ぶべき語であることに触れておいたが、この語の成り立ちは実は、それほど単純明快ではない。試しに、ここで改めて『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を繙(ひもと)くと、そこには「勿体」も「勿体無い」も、いずれも中世の用例――例えば、前者であれば『下学集』(1444年)が、後者であれば『宇治拾遺物語』(1221年頃)が、それぞれ挙げられており、この二つの語が、どうやら中世を起源とするものであったらしい点は、察しが付く。ただし、そこから安易に、この両者の前後関係にまで判定を下すことは、それほど一筋縄では行かないようである。

と言ったのは、この内の前者の用例(『下学集』)において、そこで用いられている「勿体」の語が、それ自体、すでに体(「正躰」)の、ない(勿=無)状態を指し示しており、それは「勿体」の本来の義(=物体)ではなく、すでに「勿体無い」の義に、転化したものに他ならないからである。この事実を、そのまま素直に受け取れば、そもそも「勿体」とは「勿体無い」の意味であり、まず「勿体」という語が先にあって、そこに後から「無い」が付け加わった、と見なすのは順序が逆のようである。もっとも、もともと「勿体」という語の中には、ない(勿=なかれ)という意味が差し挟まれているのであるから、この和製漢語(!)を日本人が、最初から「勿体無い」の義で使っていたとしても、そのこと自体は別段、不合理なことではない、という見方をすることも許されるであろう。

ともかく、あくまで中世の用例に即して言えば、最初に登場するのは「勿体無い」の義であって、逆に「勿体」が単独で、その本来(?)の意味で使用されるのは近世以降のことになる、とするのが『日本国語大辞典』の説明である。……と、このような七面倒臭い物言いを続けている内に、そろそろ君が睡魔に襲われ始めているのではなかろうか、と僕は相当、不安な気分に陥らざるをえないが、これから君が「ことば」と付き合い、その付き合いを長く、深いものにしよう、と願うのであれば、この程度の七面倒臭さは、決して避けて通ることの出来ないものであり、それを安易に、別の表記に置き換えて、例えば「勿体無い」をローマ字(MOTTAINAI)に変え、それで君の「コミュニケーション力」が付くはずなど、まったく無いことを、僕は君に、はっきり伝えておかなくてはならない。

もちろん、このような言い方を僕がしたのは、昨今、この「勿体無い」という語が意外にも、いわゆる国際語(international language)の仲間入りを果たしているからである。――と書いたら、すでに君はケニア(Kenya=白い山)の出身で、世界的な環境保護の推進者として有名になり、その結果、2004年には「ノーベル平和賞」も受賞した、ワンガリ・マータイ女史のことを想い起こしてくれているに違いない。もっとも、僕自身は残念ながら、我が家にTVという文明の利器(!)を所有していないので、実は一度として、彼女の映像を見たことがなく、その声を聞いたことすらないのではあるが、それにも拘らず、このような僕でも彼女の言動を通じて、このMOTTAINAIという語が世界に広まり、それが彼女の環境保護や平和運動を象徴する、はなはだ重要な語になったことは知っている。

また、彼女が日本を訪れた際に、たまたま「勿体無い」という語に出会い、この語を当初、英語のwastefulに置き換えようとして、それ止め、アルファベット(要するに、ローマ字)に直し、そのままMOTTAINAIという形で使い出したことも、君と同様、僕は知っている。でも、それと並んで、このMOTTAINAIが古く、今から400年余り前の、ポルトガル語訳の日本語辞典(『日葡辞書』)に登場し、当時のキリスト教世界(=ヨーロッパ)には紹介済みの語であったことも、君は知っていたであろうか?知っていたのであれば、今の君が生きている、この国際的(インターナショナル)な世界は、とっくの昔に動き出し、その動きを知り、遡らない限り、よく正体の分からない世界であることも、きっと君は、わきまえてくれているに違いない。――やっぱり、大切なのは「温故知新」なんだよね。

 

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