ホームメッセージ「旧暦」と「改暦」の話 PART2 ――「教養」の来た道(52) 天野雅郎

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「旧暦」と「改暦」の話 PART2 ――「教養」の来た道(52) 天野雅郎

前回、僕は君に「旧暦」と「改暦」について、話を始めたのであるが、ついつい、いつもの癖(くせ=曲)で、余計な蚊の話などを差し挟んでしまったものであるから、話自体は話半(なか)ばで、紙幅が尽きてしまい、そもそも僕が君に伝えたかった、肝心の「旧暦」と「改暦」の話は、そのまま宙ぶらりん、の状態になってしまっている。そこで、今回は再度、また『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を参考にして、いったい僕が君に何を語りたかったのかを、説き起こすことから始めたい。――でも、僕自身は蚊が、僕の耳元を中国語(と言うよりも、漢語)で「ブ~ン」(蚊→漢音=ブン、呉音=モン)と飛んでいるのか、それとも日本語(と言うよりも、和語)で「カ~」と飛んでいるのか……という点は、とても大事な、まさに歴史的大問題(!)に感じられるのであるけれども。

さて、そのような訳で今回も、まず『日本国語大辞典』で「旧暦」の語を引いて、その語釈を君に紹介することから、話をスタートさせよう。ただし、その前に順序として、逆に「改暦」の方の語釈を君に紹介しておくのが、得策なのではあるまいか。と言うのも、この「改暦」の語を『日本国語大辞典』で調べると、そこには「暦(こよみ)や暦法を改めること。古い暦の不正確さ、また、実用上の便宜から、新しい暦法を採用すること」という説明文が置かれた後で、その用例には明治11年(1878年)以降、当時の司法省(現:法務省)が足掛け18年を費やして刊行した、江戸幕府下の法令刑罰集(『徳川禁令考』)が挙げられているのであるが、そこに「改暦」の用例として引かれているのは、宝暦4年(1754年)11月14日の、桃園(ももぞの)天皇による「改暦の宣下」であったから。

と言うことは、この際の「改暦」とは、すでに前回、僕が君に伝えておいた、あの渋川春海(しぶかわ・はるみ)の「貞享暦」から、その次の「宝暦暦」(正式名称:宝暦甲戌元暦)への「改暦」であったことになる。ちなみに、この年は日本で最初の、いわゆる「人体解剖」が行なわれた年でもあり、その折の記録を、やがて『蔵志』という形で山脇東洋(やまわき・とうよう)が出版するに至るのは、5年後の宝暦9年(1759年)のことになる。要するに、このようにして江戸時代も半ばを過ぎると、いよいよ日本は「国際世界」の荒波を、その身に諸(もろ)に浴びざるをえない事態に至るのであって、このような事態は当時から、ちょうど100年を経た後の、嘉永6年(1853年)のペリーの来航(「太平の眠りを覚ます上喜撰=蒸気船」)を待たねばならなかった訳では、決してなかった。

その意味において、この年(1754年)に京都の六角獄舎(正式名称:三条新地牢屋敷)で行なわれた「人体解剖」において、日本で最初の献体(?)となった人物が、死刑囚でありながら、結果的に「利剣夢覚信士」という名(すなわち、戒名)を与えられることになるのも、はなはだ印象的な出来事である、と言えば言える。なお、このような日本の近代化(modernization=西洋的近代化)に当たって、きわめて重要な役回りを演じたのが、この一連の文章(「教養」の来た道)でも何度か、その名が登場している、あの徳川吉宗(とくがわ・よしむね)であったことも、君は一人の和歌山大学生として、踏まえておくべきではなかろうか。実際、この時の「貞享暦」から「宝暦暦」への「改暦」は、遡れば彼の将軍(「暴れん坊将軍」!)時代の、いわゆる「享保の改革」に端を発している。

このようにして、私たちの国では江戸時代を通じ、数十年刻みで、四度に及ぶ「改暦」が繰り返された次第である。そして、そのような経緯において、言ってみれば、江戸時代に作られた最後の暦である「天保暦」(正式名称:天保壬寅元暦)が「改暦」の憂き目に遭い、これに代わって、文字どおりの「新暦」として登場したのが「グレゴリオ暦」であり、これが目下、私たちの国では最も新しい「改暦」となっている。なお、ここでも『日本国語大辞典』から、その「新暦」の語の説明文を引いておくと、そこには「明治六年(一八七三)以後、それまでの太陰暦にかわって採用された暦。太陽暦。陽暦。旧暦の明治五年(一八七二)一二月三日をもって、新暦の明治六年一月一日とした」と書かれ、その用例には、以下の『西洋道中膝栗毛』の一節(と言うよりも、一首)が挙げられている。

 

十五夜も 弓張月(ゆみはりづき)の 新暦に 玉の兎の 住所(すみどころ)なし

 

言うまでもなく……と言って、それを昨今、流行(はやり)言葉となっている「上から目線」のように見られると、とても僕は心外(^^;)であるが、よもや君が「十五夜」や、そこを「住所」(すみどころ=すみか→住処)としている「玉の兎」(=玉兎)のことを、知らないはずはないよね? したがって、あえて僕は再度、言うまでもなく――と繰り返すけれども、ここで『日本国語大辞典』が用例に挙げている『西洋道中膝栗毛』とは、言うまでもなく、十返舎一九(じっぺんしゃ・いっく)の『東海道中膝栗毛』を模倣した、片や江戸時代の、片や明治時代の、それぞれ滑稽本の代表作であって、作者は仮名垣魯文(かながき・ろぶん)と総生寛(ふそう・かん)であるが、ここで引かれている歌が登場するのは、その内の第13編であるから、厳密に言えば、この歌の作者は後者である。

と言うことは、この歌を理解するためには、この歌の何処(どこ←いどこ←いづこ)が滑稽(コッケイ)であるのかを、理解することが先決である。逆に言えば、それを理解しないことには、この歌はチンプンカンプン(珍糞漢糞!)の、ほとんど訳の分からない、つまらない歌になってしまわざるをえない。でも、そのような「つまらない」何か(場合によっては、誰か)に出会った時が、実は君の、他ならぬ正念場(しょうねんば)であって、そこから君が、その「つまらない」何かと付き合い、その「つまらない」何かを「つまらない」状態から「つまる」(=詰まる→詰まり)状態へと、移行させることができるのか、どうか……それは君が、これから君自身の舞台で主役を張り、そこで歌舞伎役者さながらに、その名の通りの「見せ場」を演じるためには、必要不可欠の条件なのである。

その点では、例えば「十五夜」を栖(すみか)としている「玉の兎」も、まったく君と変わる点はない。なぜなら、一月に一度、待ちに待った「十五夜」が来て、そこで臼(うす)と杵(きね)で餅(もち)を搗(つ)き、時と所を違えれば、中国の伝説のように不老不死の薬(!)さえをも作っている、この「玉の兎」は、それが「十五夜」であればこそ、そこに姿を現すのであって、これが「弓張月」(すなわち、上弦の月や下弦の月)であっては、そこに姿を現すことが叶わない訳である。そして、そのような事態が普段から、ごく普通の光景として繰り返され、困ったことに、いくら「十五夜」の空を見上げても、そこに「玉の兎」の姿を見つけることが困難になってしまったのが、いわゆる「新暦」の「十五夜」であった次第。――いやはや、これは何とも、滑稽な事態ではなかろうか。

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