[村川猛彦]

生い立ち

ふと,村川猛彦(田中猛彦)のプロフィールを書いてみようと思い立ちました.
書いていくと,生い立ちになりました.
教員になってからの話は,もう少ししてから書きます.


小学校入学まで

昭和40年代の夏の暑い日に,大阪府堺市で生まれました.
結婚して家を出るまで,住所はずっとここでした.

最寄りの駅は南海本線の堺駅.特急を含め,すべての列車が止まる駅でした.(ラピートαは止まりませんが.)
昔は「きのくに号」という列車が出ていました.南海の難波から出て,和歌山市までは特急扱い.和歌山に移動して,天王寺発の「きのくに」と連結します.そもそも「きのくに」というのは国鉄の急行電車でして,ともあれ堺駅から乗り換えることなく,白浜や新宮といった和歌山県の南の観光地へ行くことができました.

幼稚園のころの夢は「電車の運転手」でした.


小学校

堺市立英彰(えいしょう)小学校に6年間,通いました.
堺市立のほかの小学校は地名に基づいていたけど,この英彰小学校だけは例外だったそうです.(なのに,いわれはもはや覚えていません.)

何かの距離を聞かれたとき,たまに僕は「走って50m」と答えることがあります.
これは冗談で,走っても歩いても距離というのは変わらないはずです.
「走って50m」と最初に言ったのは,2歳上の兄で,家から小学校までの距離を聞かれ,とっさにこう答えたそうです.
実際には,自宅と小学校の門までは300mくらいあると思いますが.

大浜(おおはま)体育館で柔道教室に通っていました.
また,将棋を父から教わりました.小学校中学年までは駒落ちで父と指していました. 6年生には,上野芝駅のそばの将棋教室に通っていました.
といっても,奨励会(将棋プロの道)を受験するほどの棋力はありませんでした.


中学校

中学校は,堺市立大浜中学校でした.
当時は,堺市立で唯一の「丸坊主」学校でした.髪の毛にすっと指を入れてみて,指の間から髪の毛が出ていたら,散髪に行って丸坊主(2枚刈り)にしてこい,というルールでした.男子だけですよ.

中学生というと,部活動.柔道部に入りました.
柔道場は,教室に畳を敷いただけの部屋でした.投げ技で壁や柱に体をぶつけないよう,遠慮しながら乱取りなどをしていました.
試合や練習試合で泉大津によく行きました.また,鳳(おおとり)高校に足を運んで稽古をつけてもらったこともあります(たしか,顧問の先生が鳳高校の柔道部出身でした).
僕がいたころの柔道部は,100kgの体格を持つ部員が2人いるなどして,試合でも堺市では1番でした.泉北エリアや大阪府下になると,同じ学年でも強い人がごろごろいましたけどね.

3年の夏に,堺市で年1回行われる昇段試合にて,後に先輩になる人に勝って初段となりました.
翌年(高校1年)は,その昇段試合の二段の部に出ましたが,中学の後輩に負けました.

将棋はそれより少し前,3年の春先に,毎月買っていた将棋雑誌の棋力認定で初段となり,免状を申請しました.


高校

高校は,大阪府立三国丘(みくにがおか)高等学校でした.
学区の中ではトップ,大阪府内でも有数の進学校だったそうですが,入学後に「男子は3人に2人が浪人しています」というのを聞き,しっかり勉強せなあかんなと思いました.

高校の授業や試験で,出来不出来がわかり,文系か理系かを決めるものですが,僕に関しては,社会全般,特に倫理の点数はさっぱりでした.
一方,数学や理科(物理・化学)は平均点よりいい点が取れたので,このあたりで理系に進もうかなと思いました.
高校でも柔道部に入ったのですが,なぜか先輩からは「お前が理系かあ?」と言われました.

高校の柔道部では,主将を務めました.
もともとマイペースな性格だったので,統率力というのは考えておらず,同学年の途中退部が多かったなあと反省したものです.

「柔道部主将をしていて,二段を取ったら,大学の推薦で通るぞ」と言われたこともありますが(二段を取るため何度も昇段試合に行きましたが,ダメでした), こつこつ勉強をして,なんとか現役で大学に合格しました.

パソコンも使い始めていました.機種はMSXといいます.
BASICやマシン語でプログラムを組み,ときどきテレビゲームをやっていました.


大学

大学名はあえて伏せておきます.
知っている人は知っていることですし.
また,「一旦公開して後で非公開にできない」ということもあります.

大学では,情報工学を学びました.入る前は,コンピュータのことというと「ハードかソフトか?」という考えしかなかったのですが, むしろ理論の授業が多かったです.

理系の学部学科というと,「物理学実験」や「化学実験」がつきものですが,僕がいた学科はどちらも必修ではありませんでした.
「情報工学実験」として,半田付けやオシロスコープによる波形計測,組合せ回路の製作などをしました.

授業で興味深かったのを3つ,挙げておきます.
まずは1年の1年間,教養科目として学んだ社会学です.
最初に「地位役割論」というのを教わりました.例えば学生一人をとって見ても,大学では「学生」,サークルでは「部員」,家に帰ればまだまだ「子供」,でもアルバイトで家庭教師をすれば「先生」,といったように,一人の人でも状況に応じて様々な地位が与えられ,何らかの役割が課されているといったことです.

2番目に,2年の英語の授業です.
「君達は情報の学生だから」と先生がおっしゃって,前期はEmacsのオンラインマニュアルを読みました.
「オンラインマニュアル」といっても,コンピュータ上で読むのではなく(当時そこまで計算機環境は充実していなかったし,語学をコンピュータ室でというのは現在でもないでしょうね),印刷したものです.
後期も同じ先生で,今度はTeXのオンラインマニュアルでした.
metaやkerning,ligatureといった「専門用語」をいろいろ知りました.

今,読んでくれている人の中に,大学に入ってコンピュータを使いこなしたいと思っている人がいるかもしれません.
僕のいる学科でも使用していますが,文章を書くソフトウェア(テキストエディタといいます)としてEmacsを使用するところがあります.
Emacsでは,メタキーというのがあり,単にxキーを押すのと,Altキーを押しながらxキーを押すのとでは,その効果が違ってきます.ここでAltキーが,メタキーです.
さらにEmacsでは,「Altキーを押しながら」というのは「Escキーを押してから」と読み替えることができます.
僕自身がEmacsを使いはじめたのは大学2年の後期でして,だから使うより前にメタキーとAltキーとEscキーの関係を英語で読んで「何でこうなってるんや?」と思ったものです.実際にEmacsを使いながら,X Window Systemの仕掛けを学んで,Unix文化に親しんでいきました.

印象に残っている授業の3番目は,ルベーグ積分で,これは3年の後期に取りました.
ルベーグ積分は,未だにその本質はわかっていないのですが,状況に応じたツールの使い分けというのと,「縦に見るとダメなものが,横に見ればうまくいく」という発想の転換の実例ということで,学んでよかったと思った科目でした.

授業以外にも,コンピュータを使って,プログラムをしたり, 小話を書いたりしていました.
プログラミング言語は,授業でPascalやCを学びました.
変数のスコープというのは,今にしてみれば重要な概念なのですが, BASICやアセンブラからプログラミングを学ぶと,これらのことがよく分からず,苦労しました.
小話を書くのは,はじめのころはワープロを買ってそれを使っていたのですが,TeXが便利なことを知り,LaTeXを自習しました.
PC-UNIXというのが出だしたころで,アルバイト料などを貯めて,数万円もするソフトウェアを買いました.でもCPUやメモリが不十分で,使いものになりませんでした.

サークルにも入りました.「知識情報学研究会」と,名前は堅いのですが,僕が入った年から柔軟路線になったらしく,大学外や女性の会員を取り入れるよう努力したり,コンピュータ以外のことで楽しんだりしました.


大学院

大学院は,奈良先端科学技術大学院大学を選びました.
1期生の募集を見て,新しいところで勉強や研究をしたいと思ったのが一番の動機でした.
ただ,当時いた大学にいてもどうも自分の個性を発揮できないと感じていたし,その大学で進学する場合,「夏休みは院試の勉強に費される」と聞いてそれは嫌だなあと思ったものです.

奈良先端科学技術大学院大学は面接のみでした.面接は2段階に分かれていて,最初は志望動機や研究をするためのバックグラウンドの確認で,次は学力(数学,英語,情報)を問う口頭試問でした.

ところで,大学院には飛び級,つまり4年生を経ることなく入学しました.
当時の飛び級の基準は,「専門科目について,3年次までで(大学で)必要な単位数を修得していること」でした.現在,和歌山大学システム工学部にも飛び級制度はありますが,対象となる科目は専門科目だけでなく卒業に必要な全科目ですし,成績も優が2/3以上という条件になっています.今のほうが,妥当かなと思います.
ただ,授業の成績と研究というのは違うものなので,優が多いから飛び級を,というのは褒められたものではありません.
人より短期で修士号を取って社会に出たいとか,3年までの授業に継続して発展した最新技術を学びたいとかいった動機もほしいところです.
飛び級したい人は僕のところに相談に来てください.と気持ちはオープンにしているつもりですが,これまでほとんどそんなアナウンスをしていないので,相談に来た学生は一人もいません.

大学院は,研究をするところです.僕は5年間かけて,暗号プロトコルというものを検討していました.
「暗号」の文字がよく見かけると思います.簡単に言うと,「当事者だけが分かって,それ以外の者は分からないようにメッセージを作るための仕掛け」です.
「暗号プロトコル」は,「暗号を使って,『当事者だけが分かって,それ以外の者は分からないように』するための仕掛け」…と書くと,混乱してしまいそうですね.
現代の暗号では,暗号を使って通信をする前に「鍵」を当事者で共有しておく必要があります.どうやって共有しましょうか? というのは,暗号プロトコルの典型例です.

僕はその中でも,時間の概念があって,メッセージに含まれる時刻情報(タイムスタンプとも言います)によって「新しい(fresh)」か「古い(outdated)」かを判定できるような条件設定で,これまでにないものができないか,考えていました.
幸いにも,既存の方法では安全とみなされていたある暗号プロトコルが,もっと精密に調べてみると,安全でないことに気づき,それを説明するための数学的構造(というほどでもないのですが)を作りました.
指導教員からも「ああ,これは面白いね」とお誉めの評価をいただき,論文の形にして投稿し,審査してもらいました…残念ながら,却下でした.練り直して再度,そしてもう一度と挑戦して,なんとか採択となりました.

趣味で,よくやっていたのは,「麻雀」と「ぷよぷよ」です.

麻雀は,Nifty-Serveのフォーラムを読み書きしていました.
一度,懸賞に当たって,黒塗り麻雀牌というのをもらいました.

ぷよぷよというのは,同じを4つくっつけて消すテレビゲームです.
ある場所を消すと,他の場所で4つ(以上)くっついて消えることもあり,これを連鎖と呼びます. そこで,連鎖してぷよが消えていくさまをシミュレーションするプログラムを作ったことがあります.
プレイのほうは下手の横好きでしたが,福岡から仙台まで,多い年には年間30くらいの大会に出て,ときどき優勝したこともあり,初段をもらうまでになりました.

学生時代の終わりのころというのが,WWWが流行りだしたころと重なるので,麻雀やぷよぷよに関する雑多な内容を載せたWebページを作りました.
また,NetNews (fj)に記事を投稿して,文字によるコミュニケーションや議論のノウハウはそこで学びました.
現在,電子掲示板で最も有名なのは2ちゃんねるですが,あそこに書き込んだことはありません.


大学教員

幸いにも,奈良先端科学技術大学院大学のところで教員になることができました.
それから現在までのことは,暇を作って書いていこうと思います.


[村川猛彦]
takehiko@sys.wakayama-u.ac.jp
Last modified: Tue Mar 29 18:07:20 JST 2005