「教養の森」センター設立5周年記念シンポジウム開催レポート

「教養の森」センター設立5周年記念シンポジウム開催レポート

昨年の12月15日に、劇作家・演出家の平田オリザさんをゲストに迎えて「教養の森」センター設立5周年記念シンポジウムが開催されました。

開催の約1か月前からタワレコ風のポスターが学内各所に貼られ、シンポジウムタイトル「わかりあえないことから」がちょっとした流行語になっていました。

  

私は大学に入学してから演劇に興味を持ち、舞台を追って各地をまわるうちに地域の文化的な差を体感し、いまは演劇のなかでも特に演劇祭と地域をテーマに卒論を書いています。

平田さんは先日、自身が主宰する劇団を東京から兵庫県の豊岡へ引っ越すと発表したばかり。

劇作家としてはもとより、私は彼が演劇から得たコミュニケーションについての知見を教育現場で実践する教育者としての姿にも興味を持っていたので、

彼がいま、教育や地域について、教養という観点からどんな話をしてくれるのか楽しみにしていました。

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◆Moodleにて記録映像公開中!

下記の3つのイベントはいずれも学習支援システムMoodleで公開されています!

和大生も教職員も、学内の人であれば誰でもみることができますので、ぜひご覧ください!

 

 2限:ワークショップ「コミュニケーションについて考える」

 ▼「教養の森」センター主催のシンポジウムに加えて、平田オリザさんをお迎えするならということで、急遽図書館が企画。

  あっという間に募集定員28名に達して、30名分の見学枠が設けられました。

  ワークショップは俯瞰的な視点で撮影されていて、参加していない人が見てもコミュニケーションについて発見があると思います。

 

 3限:シンポジウム第一部 特別基調講演「わかりあえないことから」

 ▼当日G102教室には、定員の250名を超える学生・教職員・地域の方々が集まりました。

  平田さんの著作『わかりあえないことから』(2012年、講談社現代新書)をもとに、平田さんが考える教養教育について語られました。

  Moodleでは、平田さんが講演に用いたスライドも表示されるようになっています。淀みなく明快に話し続ける90分の講義をぜひ体験してみてください。

 

 4限:シンポジウム第二部 パネルディスカッション

 ▼特別基調講演を受けたパネルディスカッションには、平田さんに並んで和歌山大学の教員3名が登壇。大学教育の未来について議論しました。

 

ここからはどんな1日だったか、私自身の感想を文章と写真でお届けします。

 

ワークショップのキーワードは「イメージの共有」

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ワークショップは身体を動かすだけではなくて、学校教育へ導入する際のコツなどさまざまなレクチャーを交えながらのあっという間の90分間でした。

印象的だったのが、キャッチボールと大縄跳びを具体的な物を使わずにジェスチャーでやるというプログラム。

大縄跳びはキャッチボールに比べてイメージを共有しやすく、その理由は、一定のリズム・動きのシンクロと、日本であれば小学校のときに誰しも経験したことがあるという共通の記憶があること。

このようにイメージには、共有しやすいもの/しにくいものがあり、ふだん何気なく使う言葉にも、それぞれどんなつもりで使っているかイメージの共有やズレがあると指摘していました。

それらは舞台芸術における俳優の動きやセリフの選び方にも関係し、「嘘である」演劇で、舞台上と観客が劇空間の「本当」を共有するテクニックとしても使われているという解説に膝を打ちました。

実際に参加した人たちを見つけて、ぜひ感想を直接聞いてみてください。

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◆シンポジウム「わかりあえないことから」

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基調講演では、平田さんが関わっている大学入試改革や地域の取り組みを例に挙げながら、

社会が求めるコミュニケーション能力を「演じ分ける能力」であると分析し、「わかりあえないことから」対話をはじめる重要性を説きました。

また、審美眼やセンスといった定量的には測れない能力を身につけるためにも、教養教育が必要であると話しました。

都市と地方の文化的な格差は大きく、また文化に触れる機会の有無は各家庭の経済的な格差にも影響を受けます。

そうした格差を是正することができるのがまさに教養教育であり、小学校から大学まで一貫して行われることが重要とまとめていました。

 

私はこの話を聞いて納得する部分もありましたが、一方で生まれる家庭や地域は選ぶことができず、東京を中心にして他を「地方」とくくって捨てるのは残酷だと感じました。

どこで暮らしていても、自分がこれまで過ごしてきた環境を捉え直し、これからどんなふうに生きていきたいか自由に考えることはできます。

そうしたときに視野の広さの支えとなるのが、身につけてきた教養なのだと思います。

 

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パネルディスカッションでは、教員・学生ともから教養科目が軽視されているのではないか、

学生はわからないことをわかる必要がないと思っているのではという指摘がありました。

私は、シンポジウム後の学内の反応に、そうした指摘に対しての答えがあったと思います。

ゼミの友人はメモしたノートを広げて目を輝かせて印象に残ったことを話してくれ、後輩は平田さんが講演で言った「本物」とは何だろうかと疑問をぶつけてきました。

広報室では、シンポジウムを受けてどう感じたか議論が巻き起こりました。先生方が生きてきた時代、歴史、そして教養。

刺激的な講義を受けて、そこから対話が生まれてさらに疑問を持ち、各々のテーマを追究していく。

これは大学という場所だからこその学びであり、平田さんの講演における、

「ネット社会においてもはや情報や知識は世界共有の財産であり、これからの大学は【何を学ぶか】ではなく【誰と学ぶか】」という言葉にも通ずると思います。

大学を取り巻く状況は日々変化していますが、大学とは本来どんな場所なのか、どんな場所であってほしいか、他人任せにせずに自分たちで考えていきたいと感じたシンポジウムでした。

 

余談ですが、この記事を書くのに1ヶ月かかりました。振り返ると私は、シンポジウムの間この記事をどう書くかばかりにとらわれてしまっていました。

シンポジウム後の雑談や、先生への聞き取りでも、相手の話を受けて考えるためでなく、情報収集のための会話に終始してしまいました。

「わかりあえないことから」はじめる難しさを改めて痛感した一日でもありました。今回の記事はそこから一歩踏み出すための執筆となりました。

 

西村藍