【レポートup!】第47回「『わたし』とは何か?~原因と結果の網の目のなかの自由~」
公開日 2012年10月11日
日 時: 平成24年11月21日(水) 19:00~20:30
話題提供者: 小関 彩子 (教育学部准教授)
場 所: 岸和田市立浪切ホール 4階 研修室1
申込み不要、参加無料
日常生活において、私たちは自分のことを自由だと感じています。自由とはその言葉の通り、ある行為が「自己」に「由来」しているということです。それでは、そのような「自己」とはいったいどういう存在なのでしょうか?
世界は緊密な因果関係の網の目によって織り成されています。その中に組み入れられた私たちもまた、私以前の様々な原因によってもたらされた結果にすぎないのでしょうか?
このような原因と結果の連鎖の先に何があるのでしょうか?いずれ死が訪れるのならば、現在の私の行為に何の意味があるのでしょうか?
今回のサロンでは、「自己」をキーワードに、私たちの自由や人生の意味について、皆さんと考えてみたいと思います。
<ちらしダウンロード>
<レポート> (お話の要旨は写真の下)
パワーポイントのスライドを使わない、語りを中心とした聴かせる講義でした。小関先生の、語りの合間にちらりと見せる微笑みに引込まて、あっという間に1時間半が過ぎました。
57名の参加者中、今回は初参加者が15名もありました。テーマに惹かれて来られた方が多かったように思います。哲学は、学問の基礎であり、私たちの存在や生き方、日常生活にもかかわる大事なものの考えか方だということを理解しました。
参加された方々の感想の一部を紹介します。
・学生時代以来、久しぶりに90分講義を聞きました。面白かったです。自由とは何か考えてしまいます。出席されている方は熱心ですね。(50代・女性)
・哲学って難しいって先入観がありましたが、先生の話には引き込まれました。(50代・女性)
・とても難しいことを私たちにもイメージしやすいように例をあげてお話してくださり、興味深く聞かせていただきました。もっともっとお話しがききたいです。いつかまた今日の続きが聞きたいです。(50代・女)
・哲学の講義をまた浪切サロンや学部開放授業にしてもよいのではないかなと思いました。大変ありがとうございました。こういうテーマこそ大学が取り組むべきだと思います。(40代・男性)
<要旨>
自由意志論と決定論
私たちは、毎日、色々なことを決定し行動していますが、どのようにして自分の行為を選択しているのでしょうか。私たちの行為の原因をどのように考えるかによって、私たちは自由なのか、自由ではないのか、ということが問われてきます。自由意志論と決定論という2つの考え方がどのようにせめぎあっているのかをみながら、自由とは何か、自己とは何かについて考えてみたいと思います。
自由意志論では、私の行為を選択するのは私、つまり私の行為の原因は私であり、したがってその行為の結果に私は責任を負っていると考えます。目の前にケーキと蜜柑がある。ケーキに手を伸ばした私は、翌日、吹き出物を見て自己嫌悪に陥って反省するわけですが、反省するということは、自分が自由だったことを意味します。なぜなら、もう一つの選択があり、ケーキを食べるよう命令されたわけではないのに、自らケーキを選んだからです。
他方、決定論では、私が行為を選択する以前に何らかの原因があらかじめ私の行為を決定し、不可避的に私をしてそうせしめたと考えます。私の行為は、私ではない何ものかによって決定されていたのであり、したがって私はその行為の結果には責任を負わない。
ちなみに、すべての物質は決定論の論理で動いています。あらかじめ何らかの原因があって結果が生じる。その結果が原因となって別の結果をもたらす。この因果関係を法則として理解しようとするのが科学の営みです。では、私たちはどうでしょうか。人間は身体と精神からなり、そのうち身体は物質の一部として科学的法則性にのっとって動いています。かつて身体は神秘的なもの、あるいは精神と一体のものと考えられていましたが、その後の科学技術とくに医学の進歩とともに、身体と精神とは別個のものであり、病気になったのには必ず原因があり、その原因を根絶すれば病気は治ると考えるようになりました。近年では、身体と精神の関係が考慮され、医師は患者のメンタルも対象にするようになっていますが、身体を物質としてみた科学的な身体観は、私たちに様々な恩恵をもたらしてきたことは事実です。
科学的な考え方によってもう一方の意志や精神も語りうるのではないかと考えられるようなり、しだいに社会科学が勃興してきました。心理学や経済学、社会学などの科学的認識が発達するにつれて人間をわかりやすくパターン化して理解する様々な装置が開発されて人間の行為をある程度は理解できるようになってきましたが、はたして私たちは、それほど法則性にしたがって行為しているのでしょうか。
因果の網の目のなかの自由
「風が吹けば桶屋が儲かる」という因果関係を題材にした面白話があります。桶屋は自分が儲かる理由は分からなくても、その原因を辿っていくと風にたどり着く。やはり、私たちの行為にはすべて何らかの原因があるのでしょうか。もしも原因があるとすれば、私たちの行為は自由といえるのでしょうか。自由とは読んで字のごとく、「自ラニ由ル」、私が原因であるということです。私が原因であるとき私は自由であり、私以外の原因があるとき自由ではないのです。
すべての物事には原因があると考えて、原因の原因、またその原因の原因といったようにずっと原因を辿っていったとき、どこかにそれ以上先はないという第1原因があるのではないかというのが、ギリシャ哲学以来のヨーロッパ哲学の基本的な考え方です。第1原因は、場合によってはそれを神と呼ぶことも可能になるかもしれません。今日、私がケーキを食べた原因をずっと辿っていけば、第1原因あるいは神に辿り着く、これは決定論的なものの考え方です。
第1原因で線を引くのではなく、無限に原因を考えるのが仏教の因果論です。仏教では、世の中のあらゆるものは果てしない原因と結果の連鎖関係にあると考えます。私たちは原因と結果の網の目のなかで生きている。そのことを徹底的に認識できたとき、そこから抜け出して自由な世界へ解放されるのです。これが解脱であり、仏教的に考える究極の自由です。
自らが原因となる
物質は永遠の因果関係のなかにあります。しかし人間だけは「自ラニ由ル」ことができるのではないか、因果の連鎖関係のどこかに自己原因というものによって線を引くことができるのではないかと考えるのが、自由意志論です。私がケーキを食べたのは、最初からケーキを選択することが決まっていたからではなく、様々な原因が重なったけれど、最後は私の決意によってケーキを選んだのではないか。
仏教の場合、自己原因というものを否定します。世の中は生々流転、無常であり、確かなものは何ひとつもないのだから、自己とかいうものがあると思うことこそが無明であると。昨日も今日も明日も私であるような自己同一的な本当の自分などどこにもないというのが仏教の考え方です。したがって、自己原因や自由ということは仏教ではナンセンスなことなのです。
しかし、ヨーロッパ的な考え方は少し違います。やはり自己というものをどこかに確立しています。私が私であるところの本当の私がどこかにあると思いたいのです。つまり、昨日も今日も明日も、死ぬまで私であり続けるような、どんなに見た目や、社会的ポジションや、人間関係が変わったとしても、そしてここからは微妙なのですが、植物状態になっても、精神に異常をきたしても、私が私であるところの本質みたいなものがあるはずだと考えます。私たち自身が自己原因になること、「自ラニ由ル」ことが出来るのであれば、私たちは、あらかじめ何ものかに決定されたのではない新しい何かを生み出すこと、何かを創造することができます。
創造(クリエーション)するということと製作(ファブリケーション)することとは違います。予めファブリケートされた建物のことをプレ・ファブと呼びますが、すでにあるパーツから組み立てられた家には新たに付け加わったものは何もありません。それに対して、創造(クリエーション)とは無から有を生み出すものです。
創造者である人間
ビーバーはダムを作りますが、あらかじめプログラミングされインプットされた本能という原因にしたがって粛々とダムを作るだけです。動物には本能に逆らう自由はありません。人間はほとんど本能を失ったまま生まれてきますが、その代わり、後天的に学習して、色々なことを経験したり、判断したりしながら、自らで自らをあるべき姿に作り上げていく能力を持っています。人間は、自分自身から自分が持っている以上のものを引き出し、何か新しいものを生み出すことができるのです。どこにもなかった考え方やすばらしいデザインを生み出したり、誰も描いたことのなかったような絵を描いたりすることができます。ビーバーと違って、より効率的なダムの作り方を考えることもできます。なぜなら、人間は本能にしばられていない分、自由だからです。
よく、本能のままに行動すること、己の生理的欲求に忠実に行動するのが自由だと思われたりしますが、そうではありません。本能によってそのような行動をさせられているのであれば、それはあなたの自己原因によるものではないからです。動物と同じように、本能があなたをしてそうせしめたのであり、自らの意志を放棄しているともいえます。自己の意志に由来する行為こそが自由なのです。
自己とは、人間の本質とは
ここでいう自己とは、理性や知性、あるいは精神のことです。ヨーロッパ的な人間観では、人間の本質とは、理性、知性、意志、精神といったものであり、物質の一部に過ぎない身体および身体的な反応とみなされる感情や欲求、欲望といったものは人間の本質とは考えません。カッと感情に走って「我を忘れた」とき、私は私ではないのです。こうした考え方によれば、身体や欲望、感情によってなされた行為は自由ではありません。感情に流されるとか欲望に溺れることは、自己の喪失であり、自由の放棄であり、自分が自分でなくなることを自分に許したということになります。
ただし、このような人間観については反省もあります。人間が人間たる所以が理性や知性にあるとされ、それ以外の部分が非人間的部分として排除された場合、精神障害者に対する差別や安易な脳死といった問題を引き起こすおそれがあります。例えば、障害をもった新生児の積極的治療は停止してもよい、胎児はまだ自己というものをもたないのだから中絶してもかまわない、植物状態に陥った方の延命をはかる必要はない、脳死状態の方は人間とはみなさない、といったように、一面的な人間観は時として偏った人間理解に結びつきます。
では、人間の本質、自己というものに身体を含めて考えたらどうか。明らかに、物質の一部である身体は私自身ではどうにもできません。どこまでを自己と考えることができるのか、つまり自分とは何かということは非常に難しいのです。