【レポートup!】第48回「ニッポンのものづくりと中小機械工業~都市と田舎と岸和田と~
公開日 2012年12月12日
日 時: 平成24年12月19日(水) 19:00~20:30
話題提供者: 藤田 和史 (経済学部講師)
場 所: 岸和田市立浪切ホール 1階 多目的ホール
申込み不要、参加無料
第2次世界大戦後、長い間日本経済を牽引してきたのは機械工業、「ものづくり」でした。しかしながら、円高不況、家電メーカーの経営不振や新興国への拠点流出が連日のように報じられる昨今、国内のものづくり環境は厳しさを増しています。
これまで、大手企業とともにものづくりを担ってきたのは、中小の機械工業ですが、縮小し続ける経済環境の下で苦境に立たされたのはいうまでもありません。しかし、中小機械工業は、それをバネに大きな変化を遂げてきました。
それら変化した中小機械工業について都市部・地方の集積地域の事例を紹介するとともに、岸和田の中小機械工業について特徴・現状を考えてみたいと思います。
<レポート>
日本の機械工業のあゆみから、中小機械工業の都市部・地方の集積地域の事例、岸和田の特長・現状を解説していただきました。
地方中小機械工業は、国内で生き残るために他品種少量生産・試作開発への参入をしていることを知りました。
岸和田市の中小機械工業は規模の縮小が著しく、鉄鋼は高い技術力・競争力を持つが、機械工業は概して中程度の技術力・競争力を持つ企業群が多いということがわかりました。
他の地域ではあまり見られない労働力の大部分が常雇であることは、この先、岸和田の強みになるかも知れないと思いました。
参加者の感想を一部紹介します。
・中小機械工業という一見マイナーだが、日本工業を下支えする重要なファクターについて歴史発展的背景を聴講できて大変興味深かった。(40代・男)
・日本の機械工業の歴史や課題について勉強になりました。(50代・男)
・岸和田の機械工業の現状がよくわかりました。市民としては発展して欲しいと願っています。(60代・男)
・概要がよくつかめました。繊維から金属への転換の岸和田を詳しく聞きたかった。(60代・男)
・岸和田の工業の発展について今後の進路等をもう少し詳しく聞きたかった。(60代・男)
・わかりやすい話で、よく理解できました。ものづくり日本の技能と技術が中小零細企業の中にまだあることを聞き、期待していきたいと思いました。(60代・女)
・日本の機械工業の発達の歴史を学習できたことは大きな収穫である。特に岸和田市内の機械工業の現状に大変興味をおぼえた。(70代・男)
(要旨は写真の下)
<要旨>
経済が縮小傾向にあるなか、大企業が厳しくなれば当然それらを支える中小企業も厳しくなってきます。しかし、状況に甘んじることなく変化を遂げてきた中小企業もあります。今回のサロンでは、都市部や地方の機械工業の事例に加えて、夏に授業で訪問した岸和田市内の企業も取り上げながら、日本のものづくりを支える中小機械工業について考えてみたいと思います。
日本の機械工業のあゆみ
最初に、日本の機械工業の来歴を駆け足で振り返っておきます。
近代的な機械工業の出発点は明治の殖産興業政策です。当時、紡績から紡績機や織機などが派生しましたが機械工業全体を牽引するには至りませんでした。中核を担ったのは軍工廠や官営工場の兵器や造船、ガラス、セメントなどの部門でしたが、都市部にとどまり全国的な波及には至りませんでした。
その後、日露戦争から大正時代にかけて製鉄業や鉱山業が近代化を遂げていくなか、機械や化学工業が派生的に発達し、全国に波及しました。第1次世界大戦による外需拡大を1つの背景として機械工業が都市部を中心に発展してくると、大正の終りから昭和の始めまでに工業地帯が形成されました。この頃になると中小機械工業も成立してきます。例えば、京浜地帯では軍工廠と関係の深い車輌、通信、精密機器などの企業が立地して多数の技術者を雇用していましたが、そこから一部の技術者が独立して元の会社の下請けになる関係ができました。さらに下請けから独立して孫請けが生まれ、二層、三層の下請け構造が出来上がっていきました。
戦時中、軍需工場は標的にされますから内陸部へ疎開しました。東京であれば多摩や青梅といった地域ですが、長野県(諏訪、松本)、三遠(浜松、挙母、刈谷)、南東北(郡山、米沢)といった地方へ移転した企業もありました。多くの軍需工場は終戦によって引き上げましたが、これらの企業が戦後の地方の工業化の基礎になりました。
機械工業の地方分散が本格的に始まったのは、国が政策的に立地誘導を行った1950年代後半から70年代です。「全国総合開発計画」が幾度か作られ、そのなかで工場を都市部から地方へ移転させる計画が進められました。電気機械や繊維といった労働集約的工場が北関東や滋賀県南部などの大都市圏外縁へ、さらには東北や九州へと移転を進めました。さらに70年代以降、労働集約的工程を担う「分工場」の農村部への移転が増加しました。こうした工場で農家の奥さんや高卒の若年層が雇用され、都市部と農村部の間の所得格差を多少は縮小することに寄与したといわれています。しかし、「分工場」はグローバル化の流れのなかで海外へ出て行くタイプの工場でしたから、かなりの部分が80年代以降の円高や90年代のグローバル化のなかで中国や東南アジアに流出してしまいました。
機械工業の構造変化
1990年代初頭まで、国内の機械工業は、完成品メーカーが開発・組立てを担い、下請け・孫請けが単純な部品生産をする系列関係を基礎にした大量生産に効率的なしくみを形成してきました。
しかし、グローバル化の進展とともにメーカーは組立工程の海外移転を加速させ、国内工場の閉鎖、開発・試作への集中、高付加価値製品への転換を進めてきました。メーカーの経営変化は系列型の生産関係に波及し、その結果、中小機械工業は開発型中小企業への転換を迫られることになり、生き残りをかけて、メーカーから請負った最先端材料を使用した試作・開発等に携わることになりました。開発型中小機械工業は自社による技術開発に励みますが、同時に技術や知識を保有する他社との結びつきを強め、ネットワークに依拠して学習を通じた技術の研鑽に取り組み、また近場の工場と生産機能を補完しあうことによって自らの生産基盤を確保するようになりました。
都市部の中小機械工業:大田区の事例
次に、より具体的な事例を地域別に見てみましょう。最初は、都市部の中小機械工業を代表する東京の大田区の事例です。
かつて、大田区の機械工業の集積を特徴づけてきたのが住宅と職場が近接する「住工混在」でした。住工混在は「仲間取引」といわれる濃密な関係と不可分のものでした。仲間取引とは、ある中堅企業を軸に異なる専門性をもつ中小・零細企業がグループ化して一定の加工をするもので、受注側はグループとして仕事を確保するができ、発注側は中堅企業を通してまとまった仕事を発注できる互恵的なしくみでした。こうした関係が広く作られ、大田区の生産はまわっていました。また、住工混在のポイントは「産業地域社会」を形成することにもあります。近所どうしは、取引先であると同時に、町内会や子ども会、同窓生など地縁、学校縁、場合によっては血縁まで含む濃密な社会関係の重なり合いでした。取引関係がこうした社会関係によって裏打ちされてきたことが想像できます。地域社会と取引関係が重なり合う「産業地域社会」が日本のものづくりを根底から支える原動力となっていたわけです。
しかし、高度経済成長期に都市部における住と工を分離する政策がとられ、工場の郊外移転が促進されました。濃密な産業地域社会の空間が失われることで、ものづくりが弱体化したのではないかともいわれています。その後、グローバル化とともに企業は生き残るために仲間のことをかまっていられなくなり、かつての関係はほとんど崩壊してしまいました。とはいえ、完全に仲間関係がなくなったわけではありません。新しい取引関係を構築するとき、一から相手を探すには労力やコストがかかります。そのようなとき、仲間内から得られた情報を頼りに取引をするといった、従来とは違った信頼関係に基づく取引関係が形成されてきています。このような取引関係が、現在の都市部におけるものづくりを支えていると考えられています。
地方の中小機械工業:諏訪地域の事例
田舎はどうでしょうか。私が調査フィールドにしてきた諏訪地域の事例を紹介します。諏訪地域は、元々は生糸の産地として栄えましたが、工業化は戦後になってからでした。現在の中心は諏訪市に本社を置くセイコーエプソンです。
10年ほど前に諏訪地域の中小企業20社を調査しました。従業員数は10人前後、多くても30人くらいの企業が中心です。それらは地元で技術を習得した人たちが創業した企業ですが、調査時点でも基盤となる技術は変化していませんでした。そのなかで、どのようにして試作・開発に対応しているのかが調査テーマでした。5人くらいの家族経営の会社G社は、1960年代に先代の社長が自宅で創業してナショナル家電製品の部品を量産してきました。その後、現社長が東京大田区の中小企業で技術を習得して実家へ戻ってきて会社を引き継ぎました。15年ほど前、長野県の中小企業家の集まりで知り合った会社NT社から依頼された試作の仕事がこの会社の転機となりました。試作の依頼は新しい素材による部品作りでした。G社は保有する技術だけでは対応できず、仲間から情報を集め、あるいは取引商社の保有する情報を参考にしながら実験を繰り返すことによって新たな技術を獲得してきました。試作・開発型の中小企業の多くは、このG社のようにして成り立っています。その後、G社はデザイン関連の試作の仕事を増やし、2007年にはマレーシアへ海外展開までしています。
地方の中小企業のなかにもある程度難しい加工ができる企業が育っていますし、難しいことができる企業でないと地方で生き残っていくことは難しくなっています。
岸和田の中小機械工業:特徴とこれからの課題
大都市と田舎の中間に位置する岸和田の機械工業はどうでしょうか。ご存知のとおり、岸和田は岸和田紡績などに代表される繊維のまちでした。1920年の国政調査によれば、この地域の第2次産業の就業人口割合は60%を占め、主な内訳は紡績や織布関係でした。繊維産業は労働集約型の産業であると同時に設備産業ですから単に女工さんがいれば生産が成り立つわけではなく、機械の補修・修理などの人員も必要です。おそらく繊維機械の製作や修理の技術をもった企業や職人がおり、それらが岸和田の工業化の基盤になっていったのではないかと考えます。
岸和田の機械工業が発達したのは、堺・泉北臨海工業地域開発の外延的拡大の波に乗った1960年代以降です。背景には繊維産業の頭打ちがあり、過密していた大阪の機械工業が立地移動してきたことに加えて、地元企業が業種転換しながら機械工業化をしました。それらの象徴的なものが大阪鉄工金属団地や岸和田工業センターです。鉄工団地は60年代終りから大阪市内方面から企業が移転してきて作られました。工業センターは龍田紡績の跡地の転換利用によって開設され、主に市内の企業が移転してきました。
過去四半世紀の岸和田市の機械工業を概観すると、事業所数が三分の一にまで減少しています。製造品出荷額は2000年代半ばから回復基調にあったものの、リーマンショック以降は減少傾向にあります。付加価値額は、事業所当たりでは伸びていますが、地域全体としては低下傾向です。岸和田市の製造業のなかでは、鉄鋼が高い技術力・競争力を有しており出荷額・付加価値が高く、一般機械器具や金属製品は事業所数では多いが、概して中程度の技術力・競争力の企業が多く、出荷額・付加価値額では中位といった状況です。
とはいえ、個別に見れば様々な企業が存在しています。一部の企業は独自技術・高度加工技術を保有して、ある程度の安定的な市場を確保しています。他方、従来型の中小機械工業として、京阪神内に立地している比較的少数の企業との取引に依存している企業もあります。それぞれの企業が技術力を持っていますが、属人的な加工技能に依存している、つまり職人さんが持っている技術によって成り立っている企業もあります。
大都市と田舎の中間地帯に位置する岸和田の機械工業は、現在のところ、大都市ほど過酷な競争はなく、田舎ほど切迫してもいないというのが特徴です。これまで、京阪神という大都市圏の郊外地域として外部経済を享受してきましたが、京阪神の企業が厳しい状況にある現在、岸和田の機械工業がこれまでどおりの恩恵を受けられるかどうかわかりません。郊外地域に立地する中小企業のあり方が問われています。
最後に、岸和田の中小機械工業が直面している課題を指摘しておきます。第1に、中間層・従来型の企業群の対策です。発注元がますます海外移転を進めるなか、他社に秀でる何かがないと受注は難しくなっていきます。受注機会をどのように確保していくかが課題となっています。第2に、海外進出の判断についてです。闇雲に海外進出することはリスクを伴います。中国をはじめ新興国経済の停滞を考慮した対応が求められています。第3に、技能と雇用の側面についてです。これまで、技能に依拠した労働集約的な雇用で乗り切ってきた面があります。今後は、機械化と同時に技能継承のあり方が問われてきます。最後に、イノベーションについてです。これまで地道に歩んできて高い技術を持っている企業はあります。今後、目新しい何かをやろうとする企業が出てくるかもしれません。しかし、突然目新しいものができるわけではありません。イノベーションには地道さが必要です。それに耐えうる根気と体力があるか、ここが今後の岸和田の中小機械工業を考えていくうえで大切なポイントになってくると思います。