Interview : 2022年12月31日 / 2023年1月1日/ 2023年1月3日
仏蘭久淳子(フランス移住者)インタビュー
実施日:2022年12月31日
公開日:2024年4月1日
場 所:仏蘭久淳子氏宅
語り手:仏蘭久淳子(ふらんくじゅんこ)
聞き手:小関彩子
【O】 こうで…。はい。それでは、許諾が得られました。録音しても良いという許諾が得られましたので、録音を始めます。本日は、2022年の12月31日です。では、まず、お名前をお願いします。
【F】 私は、フランク淳子と申します。
【O】 生まれた年をお願いします。
【F】 Mille neuf cent trenteだったかな。
【O】 そうですね。1930年のお生まれですね。生まれた場所はどこでしたか?
【F】 生まれた場所は、和歌山の山の奥の方だと思いますよ。
【O】 ご出身は貴志川町と聞きましたが。
【F】 そう。貴志川町です。
【O】 貴志川のご出身ですね。では、まず、生まれてから、和歌山で暮らした年月について思い出を話してください。
【F】 小さかったから、思い出なんて無いんですよ。本当に、2つか3つか、その頃ですよ。
【O】 そうですね。では、その後、女学校に入ったぐらいから、思い出がありますか?
【F】 そうね…。
【O】 絵を描くのが好きになったのは、どういうきっかけでしたか?
【F】 きっかけって無いんですよ。別に。私の小さい時、私が末っ子ですよね。それでまあ、わりあい…。
【O】 土橋家の末っ子でしたか。
【F】 そう。割合、わがままに育ったんでしょうね。それで、私がぐずると、母がいつも私に画用紙と鉛筆をくれたんですよ。そして私が落書きのように、画用紙に落書きをしてると、機嫌が良くて、ぐずるのを止めたそうです。
【O】 それで、絵が好きになったんですね。
【F】 絵が好きというか、一種の遊びだったんですね。ぐりぐりって、こう。画用紙の上に鉛筆でなんとなく、丸だの、なんとかかんとか描くのが面白くって、そういう事してると、大人しくなったんですって。
【O】 そうでしたか。その後、本格的に絵を習い始めたのはいつですか?
【F】 それは、女学校に入って、素敵な絵の先生が来たんですよ。その当時、芸大を卒業したばかりの若い、素敵な先生だったから憧れちゃったんですよね、皆さん。それで、もっと本格的にというか、絵を落書きのようにするのがもちろん小さい時から好きだったんですけど、もう少し、絵というものを、客観的にっていうわけでも無いんだけど、1つの作品と言う程の事無いんだけど、そういうものに捉え始めたのがその先生のおかげですよね。
【O】 それは、授業で習ったんですか?それとも、美術の部活ですか?
【F】 部活で。
【O】 絵画部に入ったんですね。
【F】 それはもちろん、前から、とにかく小さい時から、母が私に遊ぶのに画用紙をくれた、そういうのがずっと続いてたわけですね。多分。
【O】 でも、淳子さんが女学校の頃というのは、日本は戦争中だったと思いますが。
【F】 そうですよね。でも終わりかけ、終わった辺りですよ。
【O】 そうですか。では、戦争の思い出というのはあまり無いんですか?
【F】 戦争の思い出?戦争の思い出が1つ強烈なのがあるんですよ。私その頃、箕島というところに住んでたんですよね。
【O】 そうでしたか。
【F】 そう。そして、汽車で和歌山に通ってたんですよ。
【O】 高等女学校へ。
【F】 そう。
【O】 和高女へ。
【F】 そう。そしてある日、爆弾が落ちてきたんですよ。スーっと。
【O】 見えたんですか。
【F】 そう。それで私たちが一緒に東和歌山のホームに居たのかな。何か見えたんですよ。サーっと落ちてくるのが。それで、大慌てでホームから降りて、ホームの横のこういうところに、こう屈んで、避けたの。
【O】 ご自分は、被害を受けなかったんですね。
【F】 そう。どこにその爆弾が落ちたかも知らないんですよ。だけど、スルスルスルっと落ちてきたので、あ!って、皆がこう…。
【O】 そうですか。
【F】 後で聞けば、その爆撃機は大阪の方に行って、大阪を爆撃してたのね。そして余ったっていうか、余ってたのを軽くするために、東和歌山の駅の辺りで落としたらしいんですよね。
【O】 そんなのを見たんですね。淳子さん自身の生活においては、戦争の影響っていうのはあまり無かったんでしょうか。
【F】 そうですね。小さかったでしょ、小さかったっていうか、女学校の1年生か、その頃ですよね。子供ですよね。そもそもその時代に贅沢なんて知らないんです。毎日の生活がどれだけ、切羽詰まったっていうんじゃないんですけどね、どれほどその贅沢な食事とか、贅沢な時間とか、そういうものを元々知らないわけですよ。いくつぐらいになるのかな、女学校の1年生ぐらいっていうのはね。だから、当然生活というものはそういうものだと思って、他の事知らないんですからね。
【O】 今から考えれば、随分不自由な生活だったかもしれませんがね。
【F】 不自由な生活っていうか、日本人全体の生活が、今から考えると全く比べ物にならないくらい素朴なものだったと思いますよ。
【O】 そうですね。でも、その戦争の最中でも、女学校で絵画部で絵を習うという、そういう余裕はあったんですね?
【F】 それは、もう戦争が終わってましたよね。
【O】 終わってからですか。そうでしたか。
【F】 その、若い絵の先生がね、美校を卒業したばかりの先生が来たんです。だから戦争が終わってた。その先生は、兵隊さんに取られて、戦争が終わったから帰ってきたんです。そして女学校の先生になったんですね。それで、絵画部なんていうの作って。
【O】 美校の出身というのはたいへんなキャリアですね。
【F】 でもその当時は、戦争中でしょ。だから美校を卒業したらもう、すぐに兵隊に取られちゃったんですよね。
【O】 でも、無事に帰って来られたんですね。
【F】 そんなに長い期間じゃなかったと思いますけどね。その先生の影響ですよ。
【O】 先生のお名前は憶えてらっしゃいますか?
【F】 浜田じゃなかったかな。
【O】 浜田先生。
【F】 浜田だったと思う…。
【O】 確かに。聞いたことあると思います。
【F】 海南の方の人ですよ。
【O】 そうですか。その先生の影響で画家になろうと思ったんですか?
【F】 ところが、私の叔父、父の弟ですけど、大阪に住んでまして、「独立」という、あるでしょ?
【O】 絵画団体ですね。
【F】 「独立」の会員でね。学校の先生だったんだけど、絵の先生っていうか、絵に没頭してた人なんですよ。それが私の叔父なんですよね。小さい時からね、戦争中に、私達は西貴志村に疎開してたでしょ。その大阪の叔父も来てたんですね。そして、戦争が終わった時、戦争が終わってすぐでしたね、大阪に帰って様子を見てくると。大阪がどうなってるか。それで、淳ちゃん、絵が好きだからね、ここでお世話になったし、絵の道具淳ちゃんに置いていくよって言ってね、贅沢な話ですよ。あとで気が付いたんだけど、フランス製の箱でね、絵具道具、それこそ本当に専門家が使うような、それを私に置いてってくれたの。それで始めたの。
【O】 油絵なんですね。
【F】 そう。そんな子供にね、もったいないような贅沢なね、絵具、専門家の絵具の箱と、中にちゃんとパレットも入ってたし、絵具もまだ残ってたし。
【O】 それが大きなきっかけになったんですね。
【F】 そう。元々好きでしたからね。元々好きでしたから、叔父がそれを私にくれたんですよ。自分が使ってたあれを、絵具道具、絵の道具一切を、ここで戦争中お世話になったから淳ちゃんに置いていくよって言って、置いてってくれたの。
【O】 そうでしたか。その後では、東京芸術大学を受験しようと考えたんですね。
【F】 そしたら、その絵の先生が来たんですよ。
【O】 浜田先生。
【F】 浜田先生が。で、影響受けちゃったんですね。大阪までわざわざ絵の展覧会を見に行ったりしましたね。
【O】 女学校の時にですか?
【F】 そう。
【O】 そうですか。でも、あの時代に、東京芸術大学を受験するっていうのは大変なことだったと思いますが。
【F】 さあ、どうかな。
【O】 ご両親は反対しませんでしたか?
【F】 いえ、両親は全然反対しなかったですね。まさか本格的にやるとは思ってなかったんでしょう。遊びだろうと思ってた。
【O】 でも、芸大を受験するってなると、たいへん本格的になります。
【F】 芸大を受けるということになってから、浜田先生ともう1人、お名前失礼ながら忘れちゃったけど、師範学校ってあったでしょ、昔。そこの絵の先生。と、その浜田先生と。2人が見てくださったんです。
【O】 受験勉強ですね。
【F】 そう。受験勉強に。だから、学校の授業が済んでから、もうちょっと夕方になって、その頃になってから、図画教室っていうのがあって、そこで暗くなるまでやってましたね。それで受けたんですよ。
【O】 で、受かっちゃったんですね。
【F】 そう。受かっちゃったんですよ。
【O】 1回で。
【F】 1回でね。その時にね、東京に受けに行ったんですよね、試験を。一緒に、いとこの家に行ったんですよ。私のいとこの、主人の甥と、そしてその奥さんの方の姪が、2人が、そこのお家に厄介になって、試験を受けに行ったんですよ、2人。
【O】 2人とも芸大を受けたんですか?
【F】 いえ、1人は東大を受けた。そして1人は、私は芸大を受けた。そのいとこが、男の子の方、シゲちゃんていうんですけど、シゲちゃんには入ってもらわなくちゃ困るんですけどね、淳ちゃんの方は落ちてくれないと困るんですけどって…。言ってたの。そしたら2人とも受かっちゃったの。
【O】 やっぱり、芸大に行くことにはちょっと反対だったんですかね。
【F】 いえ、1人は東大ですよ。
【O】 でも、淳ちゃんには落ちてもらわなくちゃ困りますって言われたっていうことは、芸大に行くのは反対だったんですかね?
【F】 そりゃまあね、贅沢だったんですよ。当時としては。別にお金持ちってわけじゃないのに、わざわざ女の子を東京に出すわけですからね。
【O】 そうですね。あの時代に女子生徒が東京の大学に行くっていうのはなかなか大変なことだったと思いますが。
【F】 そんなに多くは無かったわね。
【O】 でしょうね。でも、ご両親は許してくださったんですね。
【F】 私末っ子なんですよ。末っ子だから、好きなことやらせてやれっていう、そういう気持ちがあったんですよね。
【O】 なるほど。最初和歌山県立高等女学校に入学したけれども、卒業する時には、向陽高校になってたんですね。
【F】 そう。あの時日本は占領下にありましたから、進駐軍の指令で、一種のイデアリスムなんでしょうね、特権階級じゃないんだけど…。良い境遇の、良い条件の子供達と、そうじゃない子供達と、差別がつかないように、という風な、進駐軍の、アメリカ人の考え方ですよ。そういう政治的なあれがあって、和高女、和中とかって、それ以前の歴史を持ったものと、新しい階級っていうんじゃないけど、新しくできたところと、できるだけ同じように平等に扱えという、何かそういう方針があったらしいんですよ。そして和高女だの和中だのというのは、ああいうのは特権階級。潰されはしなかったけれども、平等に扱われたんですね。
【O】 それで、生徒を向陽高校や、桐蔭高校に振り分けるようなことになったんですよね。それで、向陽高校の1期生。
【F】 それで向陽高校に行ったんですよね。なんだかわからん。
【O】 ちなみに、その和高女で有吉佐和子さんと同級生だったと伺いましたが。
【F】 そうそう。
【O】 有吉さんは、その後、多分、東京の女学校に転校してしまいましたね。
【F】 そうですね。すぐね。ていうのは、有吉さんは、お父様が東京でお仕事だったのね。
【O】 銀行にお勤めでした。
【F】 そう。だから、世の中がちょっと落ち着くとすぐに東京に帰られたんですね。
【O】 和歌山に疎開していたんですね。
【F】 そう。
【O】 女学校のクラスメイトとして、思い出がありますか?
【F】 彼女?そうね、結構仲が良かったんですけど、別に、特別な思い出っていうものは無かったけどね、思い出といえば、私の座ってる1列前の席に有吉さんが座ってて、私いつも有吉さんの背中を見てたわけです。
【O】 そうでしたか。でも、その後、東京に行ってからもずっと、お付き合いが続いたと聞いていますが。
【F】 そうです。友達だったしね。そして、有吉さんのお母様っていうのが、和歌山の人で、和高女出てたんじゃないかな。
【O】 だから、お母さんの実家に疎開してたんですね。
【F】 有吉さん達ね。そうですね。だから、有吉さんのところに時々、お食事ご馳走になりに行きましたよ。
【O】 それは、場所はどこですか?
【F】 東京で。
【O】 東京に行ってからですね。
【F】 私学生だったでしょ、飢えてるわけでは無いけど、ご馳走なんか。芸大の食堂っていうのは大変なんですよ。東京で1番汚い…。1番お粗末な食堂っていう…。
【O】 ここからは、東京の大学に行った後の事をお伺いしますね。めでたく、受験に受かりました。東京芸大に入学しました。下宿したんですか?
【F】 そうですね。私のいとこが、東京に住んでたんですよ。いとこの家族がね。奥さんの方が私のいとこになって、和歌山の人だった。それで、お気の毒にね、厄介な荷物を背負わされて、ご主人の方は甥、だからご夫婦が居たわけですよね。そしてそのご主人の方の甥と、奥さんの方の姪が私、2人が押し掛けたわけです、東京へ。試験を受けに。今でも覚えてるのは、シゲちゃんには入ってもらわなくちゃ困るんだけど、淳ちゃんには落ちてもらわなくちゃ困るって…言って、笑ってたんですけどね、結局2人とも入っちゃったんですよ。そして彼は東大に行ったし、私は芸大に行った。
【O】 受験の時は、そのお宅にお世話になって、その後、学生生活を送ってる間は、別の。
【F】 下宿してた。
【O】 下宿してたんですね。
【F】 本郷でしたね。池之端の近くで、隣に岩崎邸っていうのがあるのね。岩崎邸の隣に、下宿してたんですよね。だから、あそこからトントントンと、あそこ無縁坂っていうんですよ。鴎外の小説か何かに出てくるんじゃないかな。トントントンと降りて行くと、池之端。そして池之端の不忍池、その真ん中に通り道があって、そこを通ると、上野の山になるんですよ。だから私は無縁坂をトントントンと降りて行って、不忍池の真ん中を渡って、そして上野の山に毎日通ってた。
【O】 どうです、芸大楽しかったですか?
【F】 まあね。楽しいっていうか、バカみたいですよね。っていうのは…。美校の奴らと軽蔑するな、末はピカソかセザンヌかっていう歌。末はピカソかセザンヌか、ちゃかほいちゃかほいって言うんです。美校の奴らと軽蔑するな、末はピカソかセザンヌかちゃかほいちゃかほいって。
【O】 まだ美校って呼ばれてたんですね。
【F】 芸大なんて言わなかって、美校だったわね。
【O】 芸大になった1期生なんですね。
【F】 そう。なんだか、自分で何をしてるか本当に勝手なもんですね。親の思惑なんかちっとも考えずにね。やりたいことやってたっていう感じですね。
【O】 その芸大に通ってる間に、ベルナール・フランクさんと出会ったんですか?
【F】 私フランス語やってたんですよ。
【O】 それは絵画の勉強には必要ですから。
【F】 末はピカソかセザンヌかって思ってるくらいだから、いつかパリに行きましょうと思ってたのね。あの頃パリっていうのは、なんていうのかな、一種の夢をそそるような存在だったのね。
【O】 そうですね。
【F】 それで、そのうちに行きましょうと思ってたのね。
【O】 そのフランス語はどこで勉強したんですか?
【F】 私芸大の仲間、ある日、ストーブを囲んで、5、6人の学生が放課後、喋ってたんですよ。女性は私1人、あとは男の子ばっかり。そしたら、廊下で、Quelqu'un qui veut faire le français?って言ってんのね。Quelqu'un qui veut faire le français?何?って見に行ったら、J’ai une française qui veut faire la leçon pour gagner un peu d'argent. Elle recherche les élèves. そしたらそこに居た男の子達と、私と、あれは5、6人居たかな、Bon,alors, il paraît que c’est, あ、フランス語だってよ、やってみようか。とか言ってね、手を挙げて、やるわよーなんて言って、そしてそこにストーブを囲んでた連中が、即生徒になったんですね。そのフランス人のお嬢さんの。
【O】 その人は、生徒を募集するために叫んでたんですか?
【F】 いえ、下宿してた人。下宿先のお嬢さん。そして、フランス人の彼女、コレット、マドモアゼル・ディオっていうんですけど、あそこのInstitutで教えてたんですよ。もう少し余裕が欲しかったから、アルバイトに個人教授をしたんですよね。その下宿先のお嬢さんが、学生を募ったってわけじゃないけど、探してたってわけじゃないけど。
【O】 淳子さんが下宿していたお家は、フランス人のお家だったんですか?下宿先のお嬢さん?
【F】 いえ違いますよ。普通の家だった。ただその、廊下で叫んでたのよ。彼女がね。芸大の廊下で。そして私達は、女は私だけだった。あとは男の子達が5、6人、ストーブを囲んでたんです。そしたら廊下でね、あれは彫刻の女性だったかな、Quelqu'un qui veut faire le français?なんて叫んでてね、その男の子達と、フランス語だってよ、やってみるかって。それで、やりましょう、ってやったんですよ。
【O】 その叫んでた人が、フランス人の女性だったんですね。
【F】 いえ。フランス人じゃない、下宿してた先のお嬢さんだった。彫刻の生徒でね。その家に、フランス人のお嬢さんが下宿してたんです。そしてそのフランス人のお嬢さんが、少しお金が欲しいから、個人教授を。
【O】 生徒が欲しいと。
【F】 それで下宿先のお嬢さんが、芸大の廊下で、Quelqu'un qui veut faire le français?って叫んでたんです。そして私達、暖炉のそばで男の子達とだべってたんですよね。やってみるかフランス語だってよ、なんて言って。それで、それに引っかかったのが、私と2、3人引っかかったのかな。それでフランス語始めたんです。そのお嬢さんと。
【O】 何人かのグループで?
【F】 そう。4人ぐらい居たかな。4、5人居たかな。
【O】 そうでしたか。
【F】 ところが、私1人が女性だったんですよ。あと男の子ばっかり。先生は女性なんですよね、マドモアゼル。だから、私と親しくなったんです。
【O】 あの頃芸大は、女性はすごく少なかったんですか?
【F】 さあね。1割ぐらいかな。
【O】 1割ねえ。
【F】 50人近く、40何人か、44、5人か、それくらいの生徒、1つのクラスでね。油絵科で。その中で女性が10人は無かったわね。
【O】 そうでしょうね。
【F】 だけど、よく親が許してくれましたね。私末っ子なんですよ。末っ子だから、しょうがないからやりたいって言うことやらせようっていうぐらいのつもりだったんじゃないですかね。これほど横道に逸れちゃうとは思わなかったでしょうね。
【O】 それで、フランス語を習い始めたと。まだベルナール先生まで辿り着きませんが。
【F】 そうしたら、その当時、NHKでフランス語の講座っていうのがあったんですね。フランス人はほんの僅かです、あの当時、東京で。その講師というか、そういうのを探していて、そしてベルナールが居たんで、もう1人そのコレットという女の方と。その2人を会話なんかのお手伝いにアルバイトだわね。
【O】 ベルナール先生はNHKのフランス語講座に出てたんですか?
【F】 出てたって言ったって、どの程度出てたのか知りませんけどね。正式に先生として出てたわけじゃないですよ。お手伝いみたいに出てたんじゃないかな。
【O】 そのころベルナール先生は、日仏会館の滞在研究員という肩書で東京に居たんですね。
【F】 そう。
【O】 彼は、日本文化の密教を研究するために日本に来ていたんですね。
【F】 うん。
【O】 ベルナール先生は、留学先はどこでしたか?
【F】 留学先って無かったんじゃないのかな。どうかな。よく知らないですけどね。文部省かな。とにかく、フランスの政府からお金貰ってたと思う。
【O】 給費留学で。で、日本の、日仏会館に滞在していたと。
【F】 日仏会館にも居たかな。日仏会館に居たんでしょ。
【O】 NHKのフランス語講座の、お手伝いもしていたと。
【F】 そう。フランス人が少なかったんですよ。東京で4、5人しか居なかったんじゃないかな。ちゃんとしたフランス語の先生できるような人がね。それで、ベルナールとしてはアルバイトみたいなつもりでやってたんです。引き受けたんですね。
【O】 で、どうやって淳子さんと出会ったんですか?
【F】 忘れちゃったな。
【O】 コレットさんのご紹介でしょうか。
【F】 そうでしょうね。そりゃそうですよ。でなかったら、私そういうmilieuxは知らないですよね。
【O】 そうですね。で、結婚されたのは1956年と伺っています。
【F】 そうですか。1956年。
【O】 東京で出会って、じゃあ結婚しようってなったんですか?
【F】 そんなに急にはならん。
【O】 ですよね。
【F】 もう忘れましたね。お母さんがいらしたんですよ、ベルナールの。息子が東京に留学してるからね、どれどれ、東京ってどんなところかっていうの見に来たんですね。そしてその時に、奈良や、京都も。案内したんですよ。お母様をね。その時に、私がいてったのかな。なぜ私を雇った、雇ったってお金貰ったわけじゃないんだけど、なんだか知らないけれども、私を連れてったんですよ。それで、ベルナールのお母様と、ベルナールと私と、奈良を見物して、京都もちょっと寄ったかな。それで知り合った、かな。
【O】 お母様の印象はどうでしたか?
【F】 さあね。私も初めての経験だわね。
【O】 そうですね。
【F】 ちょっと緊張したわね。
【O】 そりゃそうですね。
【F】 それにフランス語話さなくちゃいけないでしょう。
【O】 そうですね。
【F】 相手は全然日本語わからないしね。それで自分の息子のガールフレンドだということぐらいでしょうね。
【O】 ベルナール先生が通訳してくれたでしょう?
【F】 そんなにしょっちゅう傍につい…だから結構、お母様と私が2人きりになる時もあったわけですよ。
【O】 そうでしたか。
【F】 そうすると、il faut se débrouiller. 今でもね、3人で奈良を歩いてる時だったかな、いっぱい見物人が奈良だから居るでしょう。そしてベルナールとお母様と私と3人で歩いてたら、通りがかりの、奈良だから見物客でしょうね、あれが息子かな、とか言ってるのね。おかしいのはね、息子だって、母親に似てるねって言ってるのね。おかしいのは、西洋人でも、息子って母親に似るんだねって…。
【O】 なるほど。
【F】 だから、こちらが日本語がわからないと思って、通りがかりの人がそうやって言ってるんですよね。後でゲラゲラ笑って、西洋人でも似てるって、親子は。
【O】 実際似てましたか?
【F】 そうね。背が高いところとかね。同じような、やっぱり親子ってわかるような感じだった。
【O】 そうでしたか。お母様は淳子さんにどういう印象を持ったでしょうね。
【F】 さあね。息子のガールフレンドだからね、しかも日本人でしょ。そりゃ反感は持たなかったでしょうけど、困った事だぐらいの…。
【O】 でも、息子のベルナールさんが、日本の研究をしているという事はもちろん分かってたはずですが。
【F】 お母さん?
【O】 はい。
【F】 ええ、もちろん。だけど深入りするとは思ってなかったでしょうね。
【O】 その後、どうやって結婚に至ったんですか?
【F】 覚えてないわね。そんな話は。とにかく、どうだってね。別にどうってきっかけがあったわけじゃないんだけど。だってベルナールは割合大人しい人だったんですよね。だからそんなに女友達をたくさん作って、っていうような人じゃなかったのよ。だから日本人の女の子の友達ができるっていう事は嬉しかったのね。深入りするとは思ってなかった…。
【O】 東京であちこち遊びに行ったりしましたか?
【F】 遊びには行かなかったね、あんまり。1つだけ覚えてるのはね、富士五湖に行ったの覚えてる。それだけですね、行ったの。鎌倉の辺りはよく行ったかな。珍しかったですよね、あの当時。
【O】 何が。
【F】 フランス人の男性と、日本人の女性との付き合いっていうのはね。
【O】 そうでしょうね。
【F】 それが可能だったのは、私がちょうどその頃、学校を卒業した頃だし。
【O】 芸大を卒業して、卒業した後どうしました?
【F】 そうなんですよ。そこが問題なんですよ。卒業したんだけど、家では、もう帰って来なさいと。結婚しなさいと言われ、もちろん、候補者も決まってる。見合いをしなきゃいけないって…。
【O】 そうだったんですか。
【F】 そうよ。だけど帰らなかったんですよね。
【O】 そもそも就職活動はしなかったんですか?
【F】 就職活動って、どうだったんだろうね。お金を送ってくれてたんですよ。だから遊ばせてくれてたわけですよね。だから、お金を止めれば私が帰るわけなんですよ。
【O】 なるほど。
【F】 細々と送ってくれてたんですよ。だから、私も細々と生きてたわけなんですね。
【O】 卒業した後も。
【F】 そう。それで、講師なんかしてた。上野の、駒形何とかっていう中学校で教えてた。
【O】 中学校で。美術を?
【F】 うん。
【O】 そうでしたか。
【F】 絵の先生。長くは無かったですよ。2、3年ぐらいやったかな。それぐらい。
【O】 大学を卒業したのがいつになりますか?
【F】 いつですかね。
【O】 卒業後、数年は講師をしながら東京に居たと。
【F】 家からは早く帰って来い帰って来い。お見合いの相手も決まってたの。でもなかなか帰って来なかった…。挙句の果てはパリまで来ちゃったわけですよ。
【O】 結婚式は、東京でしたんですか?
【F】 東京でなんですけど、東京の隣じゃなくて、あれどこだったのかな。江の島じゃなかったけど、東京の外でした。
【O】 その頃まだベルナール先生は、日仏会館の研究員で。
【F】 そう。
【O】 その結婚式には誰が出席していましたか?
【F】 私の両親がもちろん来てましたよね。それから、面白いことに、大使も来てたんじゃなかったかな。だって、あの当時、日仏会館の研究員は、大使館員並みの境遇だったんじゃないかな?とにかく大使が出席してますね。
【O】 フランスのご親戚は?
【F】 フランスからは、誰も来てなかったんじゃないかな。そこまで覚えてない。そんなに大勢は、そんな大きなあれできないからね。せいぜい、10数人居ただけじゃないかな。
【O】 それは、神社か何かだったんですか?江の島って。
【F】 鎌倉だ。鎌倉の八幡様。
【O】 そうでしたか。
【F】 そう、鎌倉の八幡様。そしたらね、上の方で結婚式するんですよ。上ってあの…。
【O】 階段の上。
【F】 そう。そして、式が終わったら、境内の外まで出て来なくちゃいけないんですね。車は外で待ってるから。その間大分距離があるんですよ。そこを、私達結婚したわけでしょ?降りて来て、後ろにフランス人達が行列について来て、鳥居の外まで来て車に乗って、東京のどっかの会館に行って、食事したんだわね。
【O】 服装は、何を着ていましたか?
【F】 忘れちゃった。日本式だったと思いますよ。だって、全く、相当な距離あるんですよ。社殿っていうか、そういう祝詞なんかやるところから、降りて来て、境内の鳥居の外まで、車入れないから。相当な距離があるわけで、それを歩いて来なくちゃいけないんですよ。鎌倉だからね、いっぱい人が居るんです。見物人が、お芝居でもしてるんじゃないかと。皆、皆、眺められて。そして鳥居の外まで歩いてきて、そこで車に乗って、東京の何とかっていう所で、食事したんだわね。
【O】 そうすると、神道の神社で結婚式をしたわけですね。
【F】 そう。
【O】 もちろん、ベルナール先生は日本の思想とか、密教の研究者だけれども、自分の結婚式を神道っていう1つの宗教の形式で挙げるという事には、抵抗は無かったんですかね?
【F】 彼?そこが問題だわね。本当に真剣だったらするだろうか。彼にとっては、遊びじゃないんだけど、一種のエクスペリエンスっていうんですかね。宗教的、社会習慣的エクスペリエンスでしょうね。実践してみたわけですよね。だけど決して、彼は日本の宗教を遊びとして見てなかったんですよ。非常に尊敬してやってたわけ。だから、自分が本当に日本の宗教、習慣を自分が身をもって経験してるわけですよね。そういう、どこまで真剣だったかそこは、彼は白状しませんけどね。真面目にやったわけですよ。
【O】 なるほど。その後お2人で、東京でお家を借りて住んだんですか?
【F】 そうですね。日仏会館で住んだんだと思う。
【O】 そうですか。
【F】 それまで、彼は日仏会館のpensionnaireで、日仏会館に住んでたからね。だから、少し大きな部屋を空けてもらって、日仏会館で住んだんです。
【O】 そうでしたか。
【F】 お茶の水にあってね。
【O】 そこで1年ぐらい暮らしたことになりますか?
【F】 そうですね。
【O】 で、フランスに行く事になったんですね。
【F】 そう。
【O】 ご結婚に際して、ご両親は何て仰ってましたか?
【F】 もう諦めてたんじゃない?そうそう、結婚しようと、2人で決めたわけね。その時に父がちょうど東京に出て来たんですよ。それで東京駅のホームで、お父さん、私結婚しようと思うのって。そしたら、そうか、それは結構な事じゃって…。相手はどんな人だって言うから、相手がフランス人なのよって言ったら、お前はね、昔から突拍子もない事ばっかりやってきたけど、そこまでお前は突拍子な事…。うーんって言ったら、汽車がビューっと出ちゃった。
【O】 じゃあもう、東京駅から帰る時に言ったんですね。
【F】 そう。ホームで、父がもう汽車に乗ってたんですよ。私はホームで。結婚しようと思って、ちょうど文句をつけられないようなチャンスを。ところが、やって来たのよ、また。それでまあ帰ったわけね。そしたら早速、姉はもう結婚してたんですよね。姉の主人に相談したんだって。淳子がフランス人と結婚するって。だけど、とにかくいっぺん見に行こうって言うんで、姉の主人と私の父2人で、2週間ぐらい後に東京にやって来たの。ベルナールを見に。そして、その頃ベルナールは日仏会館に住んでたんですよね。お茶の水にあった。彼の部屋に入ると、床から天井まで本ばっかりなんですよ。2部屋使ってた、2部屋か3部屋貰ってた。どの壁も下から天井まで本ばっかり。そしたら2人とも入ってきて、本ばっかりやなあって言ってて、そして眺めてるのね。これだけ本ばっかり読む人だったら、まあ大丈夫だろうって事になったんだって。
【O】 そうですか。
【F】 本のおかげで許されたっていう。
【O】 何でそうなるんでしょうね。本ばっかりあると、じゃあ許そうっていう。
【F】 大丈夫そうっていうことね。その本はね、今昔物語の参考書だとか、万葉集の訳の何とかとか、特に古典が多かったわね。それこそぎっしり、彼1人で2部屋使ってたから。こういう書棚ザーッと、本ばっかりだったんですよ。これだけ本ばっかりだったらまあ大丈夫でしょうって言って。
【O】 それでお許しが出たんですね。
【F】 そう。本のおかげでね。
【O】 お母様は何も仰らなかったんですか?
【F】 そりゃ狼狽えたらしいですよ。友達に全部に報告したんだって。まあしょうがないって言う。友達は自分の息子じゃないから気楽に言いますよね。しょうがないじゃないって言って。
【O】 ちゃんと結婚式にも出席されて。
【F】 そう。結婚式東京でしたのかな。
【O】 鎌倉って。
【F】 そうだ。だけど、ベルナールのお母さん来なかったと思いますね。
【O】 そのためにわざわざね。
【F】 そう。だって、数か月前に来てるところだからね。あの頃まだ、東京まで行くという事は、ちょっと大変でしたよね。
【O】 そうですね。で、結婚されて、日仏会館に住んで、ベルナール先生の任期が明けたんですね。それで、フランスに帰国する事になって、ご一緒にフランスに行くという事になったんですね。
【F】 そうですね。
【O】 なるほど。一旦ここで切ります。ありがとうございました。
(00:54:48)