Interview : 2025年06月16日
小野俊二(同窓生)インタビュー
実施日:2025年6月16日
公開日:2026年4月1日
場 所:小野氏自宅
語り手:小野俊二(おのしゅんじ)
聞き手:布川由利
聞き手:長廣利崇
聞き手:小関彩子
【内容の説明】
和歌山大学教育学部150周年記念事業の一環として、紀州経済史文化史研究所において特別展「師範学校から教育学部へ」を開催した。その資料収集の一つとして、和歌山大学教育学部の前身である和歌山県師範学校に在学していた小野俊二氏(1947年卒、新宮市文化協会名誉会長・東新叙勲者会会長)を紀学同窓会からご紹介いただき、インタビューを実施した。小野氏は1927年(昭和2年)に和歌山県新宮市に生まれ、1944年(昭和19年)に和歌山県師範学校に進学、終戦後の1947年に卒業し、その後和歌山県で教員を務めた。本インタビューでは、師範学校入学に至るまでの経緯と、師範学校在学時の経験を中心に伺い、語っていただいた。
なお、トランスクリプトについての注記は以下の通りである。
・小野氏は【小野】(敬称略)、聞き手は【Q】と表記
・聞き取りが困難な箇所は( )で表記
・このトランスクリプトは小野氏にご確認いただいており、その際に小野氏自身によって追記された箇所は[ ]で表記している
・途中、小野氏のご家族との会話が生じる部分があり、インタビューの内容とは無関係のためトランスクリプト・映像ともに削除している。
【Q】はい。では、どうぞよろしくお願いします。布川と申します。よろしくお願いします。
【小野】私たち、学校はもうずいぶん経ちましたのでね。
【Q】そうですね。
【Q】そうですね。主に、お生まれになってから、大学ですね。師範学校にご入学されて、師範学校でのご体験ですとか、生活についてお伺いしようと思いますので。
【小野】そうですか。はい。
【Q】ちょっとお答えしづらいことがあれば、まったく問題ないので、思い出せる範囲で大丈夫です。
【小野】分かりました。
【Q】お答えいただければと思います。まず、お生まれからなんですけれども、お生まれになったのは昭和2年でよろしい。
【小野】え?
【Q】お生まれになったのは、昭和2年でよろしいでしょうか。
【小野】そうです。
【Q】ちょっとテレビ、ビデオカメラが。はい、すみません。昭和2年でよろしいですね。
【小野】はい。昭和2年2月24日です。
【Q】はい。分かりました。お生まれは、新宮でしょうか。
【小野】そうです。新宮です。
【Q】そうなんですね。ちょっと順番にご経歴を聞きたいんですけれども。
【小野】はい?
【Q】順番に、ご経歴を聞きたいんですけれども、これは順番に聞いてもちょっとしょうがないですね。ご家族は、ご家族の家業といいますか、お仕事はどういうことをされていたんですか。
【小野】父親は、昔、教員しておったんですけどね。教員辞めてからは、銀行勤め、定年退職まで、新宮信用組合いうところへね。そこへ勤めたんですけどね。
【Q】そうだったんですね。
【小野】母親は、やはり和裁の教師でしてね。昔、勤めたこともあるんですけども、ほとんど家でお弟子さんとって。
【Q】お父様は、いつごろまで教員をされてましたか。先生をされていたのは。
【小野】私らはまだ生まれる前に、もう辞めて。私たちがもう、そうですね。私、昭和2年生まれですけども、そのときはもう辞めてたと思います。[大正14年頃だと思います。]
【Q】じゃあ、新宮で先生を。
【小野】そうです。[退職後]新宮信用組合[へ就職]。蓬莱[当時は新宮第2小学校]小学校
【Q】信用組合で、ですね。
【小野】暑いですね。
【Q】大丈夫です。汗っかきなので。ごきょうだいはどれぐらい。
【小野】私、もともと5人おったんですけどね。女が2人と男が3人。もう誰もおらないです。私が一人です。
【Q】そうだったんですね。ご年齢からいうと、昭和8年に尋常小学校に入学されて。
【小野】そうです。
【Q】はい。新宮の尋常小学校で。
(00:05:00)
【小野】その当時は新宮第一尋常小学校。後に丹鶴という名前に変わりましたけどね。[母校です]今は合併して、昔の千穂小学校と合併して、千穂になってるんですかね。
【Q】すみません。もし何か聞きたいことがあれば、全然自由に。そのあと、昭和14年に中学校ですかね。中学校はどちらの中学校。
【小野】新宮中学校です。
【Q】新宮中学校。県立新宮中学校ですね。
【小野】5年制ですね。
【Q】はい、そうですよね。そのすぐあとに国民学校令が出たので。
【小野】そうですね。
【Q】尋常小学校はもう国民学校という形になるんですけれども、ちなみに。
【Q】どうぞ。
【Q】小学校から中学校、あれ、中学校、義務教育ではないですよね。中学校[県立]には進学されたのは、経緯といいますか、ご両親が中学校に行きなさいということだったんでしょうか。
【小野】そうですね。兄も中学校行きましたしね。姉たちは女学校は別でしたけどね。今もう一緒になってますけども、その当時は男女別でね。新宮高等女学校というのが。私は男ですから、新宮中学校のほうへ。
【Q】1個聞いてもいいですか。師範学校に進学される場合は、小学校から高等小学校を経て、直接師範学校に進まれるルートもあると聞いていますが、中学校を経由して師範学校に進もうって考えられたのはどういういきさつだったんですか。
【小野】はい。二通りあったんですね。昔は、私のときはもうなかったですけどもね。一部と二部っていうのがあったんです。師範学校にね。一部というのは、高等小学校出身者が5年間行って。
【Q】5年間。
【小野】中学校出た人は2年間だけ。
【Q】2年間だけ。
【小野】それが二部っていう。
【Q】そうでしたか。
【小野】私の兄がそうだったんですけどね。私らのときは、もうその一部、二部というのはなかったんです。予科と本科になって。
【Q】予科と本科。じゃあ、高等小学校を出た人は、師範学校予科に進むんですね。
【小野】そうです。はい。
【Q】中学校を出た方は、直接師範学校本科に進まれる。
【小野】そうでした。
【Q】分かりました。ありがとうございます。
【Q】ちなみに、師範学校に行こうかなと思うようになったのは、いつごろからですか。
【小野】そうですね。私の父も兄も教師でしてね。どうせおまえも教師やると小さいときから言われておりましたので、私もその気になって、大きくなったら学校の先生になるんやいうて。
【Q】じゃあ、小さいころからといいますか、子供のころから。
【小野】そうですね。はい。
【Q】教員に。
【小野】もう小学校のころからね。中学校、その当時は小学校は6年制で、義務教育終わりましたからね。旧制中学校5年間、そのあと、師範学校へ3年間。ちょうど戦争にかかりましてね。途中で学徒動員で、名古屋の軍需工場へ動員されました。
【Q】それは何年ごろですか。
【小野】昭和20年ですね。20年の1月です。
【Q】進学されたのが昭和19年。
【小野】そうです。
【Q】師範学校に行かれたのが19年の4月。もう確かに戦争の時期ですね。
【小野】そう終戦になって、また戻ったんです。
【Q】学徒動員から。そっか。
【Q】師範学校に進学されたときは、何か試験とかはありましたか。
【小野】はい、入学試験がありました。そうですね。筆記試験と口頭試問でね。主に口頭試問だったですね。あれはもう論文みたいなもんでね。何とかいう、「道」という題でね。書けいうことで。
【Q】口頭試問はいったい何を聞かれるんですか。
【小野】はい?
【Q】口頭試問では、何を聞かれるんですか。
【小野】そうですね。家族構成とかね。自分の希望とかね。主に何で師範学校を希望したかというふうなことを問われましたね。
【Q】なるほどね。
【小野】どうぞ召し上がってください。
【Q】ありがとうございます。
【Q】試験の手応えはいかがでしたか。
【小野】そうですね。その当時、まあまあ大丈夫かなとは思ったですね。
【Q】倍率は高かったんですか。
【小野】はい?
【Q】倍率は高かったんですか。
【小野】倍率は、5倍ぐらいあったです。
【Q】そうですか。
【小野】その当時やっぱり、学校の師範、先生になるのが軍隊との関係で、ちょっと兵役が延びるっていうようなことでね。
【Q】そうでしたか。徴兵猶予があったんですか。
【小野】はい。途中でなくなったんですけどね、それは。そういうことで、割り方、受ける人が多かったです。
【Q】そうでしたか。知らなかった。
【小野】私たちのときは、全部寮で、全寮制で和歌山市内の人もみんな寮へ入ったんです。
【Q】そうでしたか。
【小野】1年間はね。そのあと、動員で出ましたからね。
【Q】そうですね。
【小野】終戦後、昭和20、終戦になったのは20年ですか。
【Q】はい。
【小野】私は豊橋のほうへ、豊橋の予備士官学校いうとこいって、そこで終戦になったんですけどね。終戦になって、家帰ってきて、もうどうしようかなと思ったんですけどね。その当時、疎開してまして、家が。やっぱり、ここの三重県だったんですけども、もうそこで百姓でもしようかいうて、その当時はね。
【Q】それじゃあ、徴兵検査は受けたわけなんですか。
【小野】徴兵検査は二十歳でしたよね。
【Q】二十歳で受けた。そして、予備士官学校に行かれた。
【小野】在学中ですね。
【Q】在学中にですね。
【小野】はい。ちょうど和歌山の動員行ってたころですわ。
【Q】動員かかった。
【Q】名古屋の工場に行ってらっしゃったんですね、動員は。
【小野】そうです。はい。名古屋ではもう毎晩空襲されて。
【Q】ですね。では、逆に和歌山の大空襲は経験してらっしゃらないんですね。
【小野】あのときもちょうど和歌山におったんです。
【Q】そうでしたか。
【小野】というのは、私の兄が軍隊で亡くなりまして、母親と二人、遺品をもらいに軍隊へ行った、その晩だったんです。和歌山の大空襲がね。ですから、もう母親の手を引っ張って、逃げました。
【Q】そうでしたか。それはまだ名古屋の軍需工場に行ってる間のことでしたか。
【小野】そうです。はい。
【Q】一度、お戻りになって。なるほど。
【Q】お兄さんは、先に師範学校に進学されていたんですよね。
【小野】はい。だいぶ年が離れてまして、9歳ぐらい違った。その師範学校出て、新宮の小学校で勤めておりまして、召集になっていって、そして亡くなったんです。
【Q】そうだったんですね。
【Q】どちらの方面に行ってましたか、お兄様は。
【小野】和歌山市内です。
【Q】いや、戦地です。
【小野】はい?
【Q】戦争は、どの方面に出征されましたか。
【小野】兄ですか。外地は行ってないんです。和歌山の連隊でおったんです。病気になりましてね。
【Q】ご病気で。
【小野】和歌山の陸軍病院へ入院して、亡くなったんです。
【Q】そうでしたか。
【Q】だから、和歌山市へ遺品をお受け取りに行ったんですね。お母様と。
【小野】そうです。はい。兄が危篤いう電報が来まして、[翌日部隊へ]行ったら、もう亡くなっとったんですよね。もう亡くなってから危篤の電報が。私は母親連れて行ったんですけどもね、ちょうどその晩、和歌山の大空襲で。
【Q】あれは20年の5月?
【Q】分からないです。
【小野】はい?
【Q】和歌山の大空襲は昭和20年の何月でしたか。
【小野】もう終戦の前ですね。
【Q】ですよね。5月ぐらいでしたか。
【小野】そうでした。
【Q】ちょっと調べが、すみません。
【Q】そうだったんですね。では、ご自身が師範学校に進学されて、すぐ動員されたと思うんですけれども、入学されて、師範学校で勉強、勉学はどういうことを。
【小野】そうですね。初め、入学した当時は、まだそんなにやっぱり普通に勉強できましたからね。途中からですね。もう動員が始まりまして、その出征家族の留守宅へ手伝いへ行ったりね。そういうこともようやったですね。昭和20年に名古屋のほうへ、名古屋の軍需工場へ動員されました。結局、何月だったかな。3月、動員は。
【Q】1月10日となっております。
【小野】はい?
【Q】前にお書きになったものでは、昭和20年1月10日に名古屋の工場へ行ったと。
【小野】そうです。
【Q】記録があります。
【小野】はい。そうです。
【Q】なんですね。じゃあ、それ以前に師範学校で勉強されていた内容は、どういうものでしたか。ここにはかなり国策にのっとった教育であったというふうに前にお書きになってますが、師範学校の教育はいかがでしたか。
【小野】はい。もうあんまり覚えてませんけども、もちろん、教師になるためのあれはあったと思うんですけども、それよりかやっぱり、何言うんですかね。国策に沿った教育をやるいうね。それでも、私ら入ったときは、まだ音楽でも自由にやれましたけどもね。
【Q】音楽。
【小野】はい。私、音楽専攻しましたんでね。
【Q】そうでしたか。音楽専攻。
【Q】その音楽専攻は、入学してから選んだ。
【小野】そうです。
【Q】そうなんですね。なぜ音楽専攻にされたんですか。
【小野】私の父も兄もやっぱり音楽好きで、もう小さいときから自分も大きくなったら音楽やるんだという気持ちでおったですね。父はバイオリンやってましたしね。兄はピアノやりましたし。
【Q】じゃあ、ご自分も何か楽器をされましたか。
【小野】そうです。ピアノやりましたけどね。
【Q】子供のころから習ってらっしゃいましたか。
【小野】子供のころは習ってないです。師範学校行ってからね。
【Q】行ってから。そうですか。
【Q】クラシック音楽とかがお好き、聞くのもお好きだったんですか。
【小野】はい?
【Q】クラシック音楽とかを聞くのもお好きだった。
【小野】そうです。特にコーラスが好きでね。ただし、新宮はまゆう合唱団っていう、昔なんで、30年ぐらいやってたんです。教え子がおりますんでね。
【Q】師範学校の音楽専攻は何人ぐらいいましたか。同窓生。
【小野】そうですね。師範学校も終戦後ですからね。そうね。どのぐらい。[20名]ぐらいあったんでしょうかね。
【Q】終戦後に復学されたのは、いつごろですか。
【小野】はい?
【Q】復学されたのは、いつごろですか。
【小野】そうですね。それは、終戦になって、家帰ってきて、どうしようかなと思っておったんですけどね。その年の11月ごろだったでしょうね。やっぱり、学校出てこいいうことで、そのままお誘いがね。
【Q】お誘いが。
【小野】あったもんですから、それじゃ行ってみようかいって。寮生活ですね。終戦後はやっぱり食料がなくて、寮生活も大変だったです。
【Q】1個いいですか。先ほど、その当時、ご入学当初は音楽教育も自由にできたのになっておっしゃったので、じゃあ、そのあと、音楽教育がずいぶん変わったんですか。
【小野】そうですね。戦争中で、もう、そうですね。あの当時の音楽は何があったんかな。もう何か、軍国主義的な歌ばっかり。
【Q】でも、昭和19年に入学したときは、まだずいぶん自由な雰囲気だったんですか。
【小野】そうそう。
【Q】その1年の間に、ずいぶん雰囲気が変わっていったんですね。
【小野】そうですね。
【Q】ちょっと聞いておいていただいて大丈夫です。カメラのあれをするので。
【Q】それで、途中から軍歌ばっかりになったなってなって。
【小野】音楽が、そうですね。軍歌というよりかは、何て言うんですかね。昔の歌というかね。
【Q】昔の歌。
【小野】日本的な歌ですね。
【Q】外国の曲は禁止されたりしましたか。
【小野】はい?
【Q】外国の曲は禁止されたりしましたか。
【小野】そうですね。なかったですね。私、音楽やりだしたのは、やっぱり終戦後です。
【Q】がらっと変わりましたか。
【小野】そうですね。
【Q】もう一つ、では、時代の順番にお尋ねしたいので、じゃあ、陸軍特別幹部候補生になられたのは、それは、召集令状が来たんですか。
【小野】いや、そうじゃなしに、試験受けたんですよ。
【Q】でも、そのとき師範学校の学生はみんな徴兵猶予だったんですか。
【Q】在学してるのは。
【小野】徴兵猶予。
【Q】徴兵猶予です。
【Q】でも、在学中に幹部候補生を志願されたんですね。
【小野】そうそう。
【Q】試験を受けて、学校に入られた。
【Q】それは、どうして士官学校を志望されたんですか。
【小野】そうですね。どうせ軍隊行くんであれば、やっぱり将校になるべきだいうふうなことを思ってましたから。豊橋の予備士官学校っていうとこ。
【Q】予備士官学校。はい。
【小野】行ったんです。将校の養成学校ですね。
【Q】皆さん、将校の養成学校に行かれたんですか。
【小野】はい?
【Q】ほかの方たちも養成学校に。
【小野】そうです。同級生が大勢行ったですね。
【Q】なるほど。
【Q】そうですか。では、その予備士官学校のほかの学生さんっていうのは、だいたいどういう経歴の方たちだったんですか。
【小野】いろいろな、学徒ですからね。いろんな学校、師範学校とか、大学の予科とかね。いろいろでしたね。
【Q】その士官学校の教育はどうでしたか。
【小野】それはもうやっぱり、厳しかったですよ。朝は5時ぐらいから起こされてね。その代わり、朝早う起こされたら、昼1時間の午睡の時間をくれるんです。しかし、厳しかったですね。
【Q】でも、その士官学校は1カ月ぐらいですね。
【小野】そうです。
【Q】終戦の日のことは覚えてらっしゃいますか。
【小野】覚えてますね。全員正装して集合せよいってね。ちょうど正午に集まれいう命令が、何事かなと思って、正装してね。整列して。そしたら、あの玉音の放送を、もうみんな泣いたですね。それから、残務整理でひと月ぐらいかかったです。
【Q】じゃあ、まだその間も豊橋にいらっしゃったんですね。
【小野】そうです。はい。
【Q】そのあと、新宮のおうちに帰ってこられたんですね。
【小野】そうですね。その当時、家がもう疎開しまして、ちょうどこの辺になるんですけども、もう新宮は危ないっていうことで疎開してまして。
【Q】そうでしたか。
【小野】終戦になったときに、そこへ私帰ったんです。それから、また学校へ行ったんですけどね。
【Q】新宮に、疎開先に行かれて、先ほど、師範学校に戻ってきたらどうかというお誘いがあったということなんですけども、大学からですか。それとも、同級生とかから。
【小野】大学から、学校からですね。
【Q】そうなんですね。じゃあ、もう大学がまた始まりますよということで。
【小野】そうそう。もうその当時、どうしようか迷ったですよ。もう食料もないしね。和歌山行ってもえらいから、寮生活も大変だし、どうしようかなって迷いましたけどね。やっぱり、先々のこと考えたら、行ったほうがええって親に後押しされて、その当時の本当に寮生活は大変だったです。
【Q】皆さん帰って来ましたか。
【小野】はい?
【Q】同級生の皆さんは、みんな師範学校に帰って来ましたか。復学してきましたか。
【小野】そうですね。はい。
【Q】小野さんは辞めてしまおうかと思われたっていうことですが、でも、ほかの方々も辞めてしまわずに、戻ってこられたんですね。
【小野】みんないろいろあったんでしょうけどもね。結局はみんな戻ってきました。
【Q】そうでしたか。
【Q】ちょっとカメラを動かします。すみません。
【Q】帰ってきたら、学校の雰囲気ががらっと変わってたんですね。
【小野】そうですね。もう全然変わって。もう師範学校というのは、まったくの軍国主義でね、その当時の。ですから、もう大変だったですけどね。終戦後、もうがらっと。
【Q】それこそ、教科書から変わったんでしょうか。
【小野】そう。教科書はなかったですね。もうその先生が口移しですわ。だから、もう心理の先生が東北出身の先生で、ずーずー弁で、もう(書けんのことをね)、困ったですわ。
【Q】復学されてからは、先生たちも皆さん、おそろいでしたか、もう。
【小野】そうですね。もう全然変わって。
【Q】変わってしまった。
【Q】同じ方ですよね。
【小野】はい?
【Q】先生は別に同じ方がずっと続いて。
【小野】そうですね。
【Q】でも、内容が変わったんですね。
【小野】そうです。
【Q】音楽教育はどんな感じになりましたか、戦後。
【小野】音楽、ミズタ[水田]っていう先生がいて。
【Q】ミズタ先生。はい。長年にわたって和歌山の音楽教育のもう本当に中心的な方ですね。
【小野】はい?
【Q】和歌山の音楽教育の大変中心的な先生ですね、ミズタ先生。
【小野】そうでしたね。
【Q】そうですか。ミズタ先生。
【小野】あの先生にいろいろ仕込まれました。
【Q】そうでしたか。
【小野】音楽会でね、独唱教えてね。卒業前に、女子師範学校と合併の音楽会ありまして、そして、その独唱が3名、枠があるんですよね。その枠に私が入りましてね。ミズタ先生に絞られて。
【Q】そうですか。小野さんが在学してる間は、師範学校と女子師範学校はずっと別学でしたか。
【小野】そうです。
【Q】合併したのはもっとあとですか。
【小野】そうですね。海南にあったんです。
【Q】はい。日方にありました。
【小野】日方。その当時は、もう昔は女子師範学校だったんですけども、師範学校、男子部、女子部になってましたけどね。
【Q】統合された上でね。なるほど。
【小野】ただ、共学はなかったです。
【Q】そうでしたか。
【Q】先ほど、寮生活がとても大変だったっていうことなんですけれども、どういうところが一番。
【小野】食事ですね。やっぱり、食事がもう限られているんですよね。ですから、もうおなかいつもぺこぺこでね。イモの買い出しに行ったりね。よくしました。
【Q】寮では、皆さんどういうふうに何か行事とか、ありましたか。みんな遊んだりとか、同級生たちと何か外に遊びに行ったりすることはありましたか。
【小野】なかったですね。ほんまにもう自分の生活で精一杯でね。1回だけ遠足で、紀三井寺に、それ1回です。
【Q】1回だけなんですね。
【Q】師範学校の校舎と、そして、寮は焼けなかったんですか、空襲で。
【小野】焼けなかったですね。
【Q】じゃあ、元の学校に戻られたんですね。
【小野】そうですね。
【Q】そうでしたか。あと、野球部のこともお尋ねしていいですか。
【小野】はい。
【Q】野球部のこともお尋ねしていいですか。
【小野】野球部ですか。
【Q】戦前から、野球部はあったんですか。
【小野】師範学校にですか。ありましたね。
【Q】でも、外国のスポーツなわけですが、それでも、入学してからずっと野球部はちゃんと活動してたんですか。
【小野】戦争中はなかったです。
【Q】なかったですか。
【小野】戦争中はもう、その剣道とか、銃剣術。私、剣道3段なんですけどね。中学校のときからやりましてね。
【Q】では、野球部は戦後になってから復活したんですね。
【小野】何がです?
【Q】野球部は、戦後になってから復活して。
【小野】そうそう。
【Q】そうですか。和歌山県はもともと中等学校の野球の強い県でしたが、やはり戦争の間は、ちょっとなかったんですね。
【小野】なかったですね。
【Q】なるほど。やっぱり、戦後になって野球部が始まったときは、始まったなっていう感じがしましたか。
【小野】そうですね。うれしかったですね。野球ができるいうてね。ただ、道具がなくて、困ったですけどね。もうぼろぼろのあれを引っ張り出してきてね。
【Q】大丈夫ですか。
【Q】聞くところによると、戦争の間は、だから、外国語は駄目なので、野球をするときでもアウトって言っては駄目とか、セーフっては言っては駄目。
【小野】そうですね。そうやってましたね。
【Q】そうでしたか。
【小野】もうしかし、戦争中は野球はあんまできなかったですね。
【Q】そもそもやってないんですね。
【小野】とにかく剣道とかね。銃剣術とかね。
【Q】先ほど、野球の道具が全然ないっていうことだったんですけども、大学の教科書とかはありましたか。
【小野】教科書はなかったですね。もうその教授のあれを、しゅーって(笑)。ところが、その一人、東北出身の教授が、分かりにくいんですよ。ずーずー弁でね。あれは困ったですね。
【Q】じゃあ、先生たちはみんな話すのを書き取れと。
【小野】そうです。なぜかその東北出身の先生が私、大事にしていただいてね。ありがたかったんですけども、速記するのが大変だったです。
【Q】ほかの学生たちも、みんな大変ってなってましたか。
【小野】そうです。私が割方、丁寧に書いたもんですからね。みんなそのあとに貸してくれ。私が書いたのをみんな写す。
【Q】在学中のことは、あともう、私は何もないです。
【Q】特にないです。先生、大丈夫ですか。
【Q】大丈夫です。
【Q】教員を、教員採用試験は、その当時はいつごろ、在学中に受けるものでしたか。それとも。
【小野】そうですね。もうその昔も師範科を出れば、もう無条件で採用されるんですよ。ですから、何ですかね。採用試験なんていうのはなかったです。
【Q】無試験検定制度は戦後、まだ続いてたんですか。無試験検定制度ですよね。
【小野】もう終戦になって、私、軍隊行ってましたからね。帰ってきて、昭和22年に卒業したんです。
【Q】23年3月で。
【Q】23年。
【Q】3月ですね。
【Q】なるほど。
【Q】では、試験は受けずに、もう小学校教師に採用っていうことは、最初から決まっていたんですね。
【小野】そうです。
【Q】では、配属に関してはいかがですか。
【小野】はい?
【Q】配属は、新宮の小学校に配属されたいというのは、希望を出されたんですか。
【小野】そうです。
【Q】希望どおりに帰ってこられて。
【小野】ほとんど希望は通らなかったですけどね、皆。だから、私なんかはもう、本当に幸せだったですね。自分の母校ですしね。校長先生は、昔習った先生でね。頭が上がらなかったですけど。
【Q】今は、教員養成だと、教育実習ってありますけれども、師範学校在学されてたときは、そうやって実習とかありましたか。
【小野】ありました。
【Q】はい。どういうもの。
【小野】それは、二通りありまして、付属の学校でやる教育実習と、それから、地方へ出てやる。私は新宮の蓬莱小学校でやったんですけどね。昔は長かったですね、教員の実習が。地方実習っていうのが3カ月ぐらいあったです。
【Q】3カ月。
【小野】3学期丸丸。その代わり、学年末の学績なんかをみんな書かされてね。大変だったですけどね。
【Q】そのころ、小学校はもう終戦後すぐなので、まだいろいろ設備とか、子供たちもあんまりそろってない状況もあったかなと思うんですけども、どうでしたか。
【小野】そうですね。私、丹鶴小学校、自分の母校でしたしね。割方、こじんまりとした学校だったんでね。楽といったらおかしいですけども、そんなに苦労はしなかったと思いますけどね。校長先生も皆、昔の私、教え子ですからね。もういろいろ、遠慮なしに言われましたけどね。
【Q】付属小学校の実習と、蓬莱小学校の実習、二つ行かれたんですね。
【小野】そうです。
【Q】だいぶ違うなって思われましたか。
【小野】そうですね。やっぱり、その学区によって、全然違うんですよ、雰囲気がね。その蓬莱小学校は人数も多かったですけどね。私、音楽やりましたからね。合唱部でね。卒業してからも、蓬莱小学校へ赴任して、合唱部でコンクール出ました。和歌山代表で大阪へ行って。
【Q】すみません。また実習の話にちょっと戻ってしまうんですけども、実習に行く前は、大学で何か教わったりとかしましたか。どういう大学で指導がありましたか。
【小野】そうですね。大学の勉強とは全然ね。ただ、付属の教育実習もありましたからね。そこではいろいろ教えていただいてね。そのあと、地方へ出て。しかし、あのころはやっぱり、食料事情が悪いしね。もう教育も、もう一つ、大変だったですね。ただ、私、音楽が好きだったもんですから。
【Q】じゃあ、母校実習に帰ってきたら、新宮の食料事情はどうでしたか。和歌山よりだいぶ良かったですか。
【小野】そんなことはなかったですね。あんまり良くなかったですよ。ただ、親が疎開してましてね。この近くだったんですけども。そこでまあまあ近所の方がいろいろ世話してくれたりしてね。だいたいもう、お米がなくて困ったです。
【Q】でしょうね。
【Q】その実習で、初めて教壇に立ってみて、いかがでしたか。初めて。
【小野】そうですね。もうあんまり覚えてませんけども、楽しかったように思いますね。歳があんまり変わらない。だから、終戦直後でしたからね。今まで締め付けられたのが一遍に自由になって。
【Q】そうすると、小野さんが自分が小学校のときに受けた教育と、自分が先生になったときの教育はすごく違ったわけですよね。
【小野】そうですね。
【Q】じゃあ、自分が小学生だったときの先生と、小野さんが自分が先生になったときの先生っていうのも全然違うわけですね。
【小野】そうですね。昔、教えていただいた先生と同じ学校でね。同僚で勤めさせてもらったですけどね。それでもやっぱり、昔の先生ですから、いろいろ教えてもらったですね。
【Q】でも、小野さんが子供だったときの小学校教育っていうのは、戦前の教育だったわけですよね。
【小野】そうです。
【Q】卒業して、自分が教員になって帰ってきたら、小学校の在り方っていうのがまったく変わってしまっていたんですね。
【小野】そうですね。
【Q】先生方の在り方もずいぶん違ってるなって思われましたか。
【小野】そうですね。私は音楽専攻でしたもんでね。子供たちと合唱の指導でね。もうよく一緒になったですけどね。コンクールがありましてね。
【Q】新宮は昔から合唱の盛んな土地柄ですね。
【小野】そうです。
【Q】今に至るまで。
【小野】はい。大人の合唱団も新宮はまゆう合唱団っていうのがずっと昔から。
【Q】強いですね。
【小野】新宮音楽同好会とかね。そういう音楽の盛んな町ですね。
【Q】ですね。本当に。
【Q】じゃあ、実習とかでは、すごく楽しかったっていうことなんですけども、子供たちも自由にというか、自由に音楽の授業ができた感じですか。
【小野】そうですね。やっぱり、教育の実習生には子供だと仲良く。担任の先生はまた別でね。楽しかったですよ。
【Q】大学の音楽の授業とはまたちょっと違って。
【小野】そうそう。私、歌が好きだったもんですからね。子供らとよく歌ったです。
【Q】曲も変わりましたか。小野さん自身が小学校に行ってたころに小学校で歌っていた曲と、戦後になってから歌ってた曲は、だいぶ違いますか。
【小野】そうでしたね。私ら、子供のころは音楽の教科書いうのはなかったように思うんですよ。ですから、今でも忘れませんけども、『広瀬中佐』っていう、「轟く筒音」。
【Q】日露戦争の。
【小野】あれをもうずっと1年中習ったように思う。
【Q】なるほど。
【小野】担任の先生がその歌好きでね。
【Q】日露戦争の話ですね。
【小野】そう。ほかの歌覚えてないですね。そればっかり歌わされて。
【Q】じゃあ、もうご自身が実習とか。
【小野】はい?
【Q】ご自身が実習とか教員になったときは、もう全然違うものをやろうと思って。
【小野】そうそう。昔は音楽の教科書ってなかったですよ。
【Q】そっか。
【小野】ですから、やっぱりプリントしてね。それが大変だったですよ。
【Q】楽譜を写したりとかもしてたんですね。
【小野】そうです。
【Q】階名唱も違ったって聞いています。
【小野】はい?
【Q】ドレミって言っちゃいけなくて、戦前は、ひふみみいいって。
【小野】そうですね。一時。
【Q】はにほへとで歌ってたんですよね。戦後になったら、ドレミファで言っても構わない。
【小野】元に戻ったですね。ですから、もう戦争中は音楽ってほとんどなかったですよね。うん。
【Q】師範学校で、今は大学生たちは卒業論文を書くんですけれども、当時はそういうものはありましたか。卒業研究とか。
【小野】ええ。論文書いたです。
【Q】どういうテーマで書かれましたか。
【小野】はい?
【Q】どういうテーマで書かれましたか。
【小野】そうですね。教授によっていろいろありましてね、私が大事にしていただいた心理学の先生が、何て言うんですかね。いろいろ教えてもらって、助けてもらったですわ。ところが、その先生、東北出身なもんでね、言葉が分かりにくくて、ずーずー弁で、それで困ったですけどね。その先生は大事にしてくれたですね。
【Q】当時は、講座とか、ゼミナールとか、講座とかってありましたか。そういうものはなかったですか。
【小野】そうですね。別にそれはなかったですけどね。
【Q】じゃあ、音楽専攻というだけで。
【小野】そうそう。ですから、午前中いろいろな教科があって、昼からはその専攻の、私は音楽でしたから。ですから、午後はもう全部の専攻のあれでね。ミズタ[水田]先生って合唱のこの声楽の先生でね、ものすごい絞られました。ところが、その最後、卒業の前に音楽会があるんですよね。その当時、男子部と女子部と分かれてましたからね。合併で。そのときに、独唱の希望が男子3人、女子3人が。ところが、その10人ぐらい希望者がありました。予選やるんですよ。
【Q】予選。
【小野】お互いに審査員になってね。3人だけ選んで。私も選ばれて。ところが、ちょうど卒業前のあれで、一番寒い時期でね。風邪ひきましてね。音楽会前に風邪ひいて声出ない。
【Q】残念で。
【小野】ほんまに難儀したですよ。
【Q】その発表会はどこでやるんですか。
【小野】え?
【Q】発表会を、場所はどこですか。学校の中ですか。
【小野】そう。和大の講堂でやったです。
【Q】講堂で。誰が聞きに来るんですか。お客様は。
【小野】そうですね。一般の人が大勢来てくれたですね。
【Q】ご家族はいらっしゃいましたか。
【小野】いや、家族は来なかったです。遠いですからね。
【Q】ですね。
【小野】近くの人はみんな見えたですね。
【Q】そうでしたか。
【小野】にかくその当時、新宮といったらもう、何と言うんですかね。汽車で5時間も6時間もかかったでしょう。もうなかなか行ったり来たりできんのですよ。
【Q】ご在学のときに、一番印象に残っていることって何かありますか。
【小野】そうですね。やっぱり最後の音楽会ですね。そのとき、ちょうどその調子が悪くてね。喉のお医者さんに診てもらって。
【Q】そうですか。うまくいきましたか。
【小野】はい?
【Q】うまくいきましたか。
【小野】何とかね。
【Q】時間的に。
【Q】でも、まだ戦後のことをお聞きしたいけどね。
【Q】もう結構、1時間ぐらいお尋ねしたんですけれども、そうですね。最後にちょっと一つお伺いしてもいいですか。卒業されてから、教員になられたと思うんですけれども、師範学校で学ばれたことが生かされたこととかってありますか。
【小野】そうですね。やっぱり、音楽のほうはやっぱり、仕込んでいただいたからね。それぐらいですね。普通の勉強はもう、たいがいできましたけど。私の同級生が150人ぐらいおりましたかね。150人のうちで、そうね。何番ぐらいやったやろ、10番ぐらいやったろか。何か7番だったいうような記憶もありますけどね。だいたい。そんなに勉強もせなんだけど。
【Q】卒業式ってどんな感じでしたか。
【小野】え?
【Q】卒業式はどんな感じでしたか。
【小野】卒業式はそうですね。あの当時の卒業式。うれしかったですね。卒業するのがね。
【Q】服装は、普段は何を着てたんですか。
【小野】学生服です。その当時、物資がない時代ですからね。学生用に1着分配給あるんですよ。それがもう後生大事に。普段はもう置いといて、何かあるときだけ着る。大事にしたですね。
【Q】じゃあ、普段授業のときは何を着てたんですか。
【小野】学生服ですけどね。
【Q】やっぱり学生服。
【Q】もう時間的に。そうですか。もう1時間ほどお尋ねしたので、これで。
【小野】そうですか。いやいや、もうお役に立たなかったと思いますけど。
【Q】いえいえ、すごい大変、貴重なお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。
【Q】ありがとうございました。
【小野】もうずいぶん昔の話ですから。

