▼蓄積の科学で 社会のあり方をあぶりだす
科学としての歴史学から考える習慣を
中国では日本と考え方や価値観がどうして違うのか、理解する方法があるという。「中国社会は、一人ひとりが自分の才覚とネットワークで生きていく個人主義の社会です」受講中の学生たちが驚いて一斉に顔を上げる。昔から身分がなく、職業選択も移動も自由ということ。親の財産は家も含めて、長男だけでなく息子たちで均分相続してきたこと。そのため家業として100年続く老舗などなく、自由に選んだ職業にあった場所で「1回きりの取引」関係を結ぶこと。農作業は、土着の共同体内が組織する相互扶助でなく、労働力の売買や親族・友人との助け合いで成り立っていること......島国の封建社会とは違う大陸の専制国家の社会のあり方を、歴史的視点から考えたことのある学生は少ないのかもしれない。
当事者もわかっていないことまで解明するために
歴史を社会的な問題として考えることを知ったのは、高校の「現代社会」。1980年代、自由な雰囲気で、バブル経済に向かって羽振りのよかった世の中には、日本の侵略戦争や加害責任を正面から捉えるだけの胆力があった。大学では東洋史を専攻し「史料に基づいて歴史像を組み立てる」歴史学の基礎を学ぶ。1920年代上海の高等教育機関設立運動や1930年代華北農村の社会経済史をめぐる修士までの勉強の過程で、日本とはまったく異なる中国社会のあり方に惹きつけられた。
中華人民共和国建国の1949年を境に、中国社会は性格・構造を一変していた。何があったのか知りたい。博士課程で、ライフワークとなる中国共産党の研究を始めた。1997年に1ヶ月、2000年に1年間、その後もほぼ毎年長期休暇を利用して中国に渡って史料を調べた。公文書に書かれているもの、書かれ方、そして、書かれていないものに問いかける。刑事事件の検察官さながら、証拠を積み上げて立証していく。複数の文書の比較し、小さな矛盾から隠された事実を再構築する思索の時間が楽しい。
前提を排除し、真理に奉仕するという務め
20余年、中国の独裁が中国社会のどのような構造から作られるのかを、独裁を経験していない日本社会との比較を念頭に置きながら研究してきて、いま、その集大成をまとめている。1999年に衝撃を受けた1冊の本からの宿題だという。「田中恭子さんがぶっ壊した「建国神話」の、その先を書いています。毛沢東は何を作ろうとしていたのか、そして彼はどこまで"知っていた"のか、私なりの答えとともに」
歴史によると、社会のあり方を決めているのは人間と人間の繋がり方だ。認識の制御がそうであったように、情報過多も専制君主制と親和性が高い。社会全体の余裕がなくなると、歴史を踏まえて考えることができなくなるもの。現代社会に抱く危惧は大きい。「歴史学は地味で、すぐに結果が出ないしすぐに世の役に立つわけでもない。それでも、時流におもねらず、学問的な良心に基づいて信念と情熱で進みたい」
2022年8月 8日
Profile プロフィール
三品 英憲 MISHINA Hidenori
和歌山大学着任 | 2008年 |
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学歴 | 金沢大学文学部史学科~東京都立大学院人文科学研究所歴史学専攻 |
学位 | 博士(史学) |
研究キーワード | 毛沢東、土地改革、中国共産党史、劉少奇、戦後国共内戦 |
書籍等出版物 | 『現地資料が語る基層社会像 : 20世紀中葉東アジアの戦争と戦後』「第8章 戦後内戦期の土地改革と農村社会認識 ―「土地の平均分配」と「中農財産の保護」の間 ―」(分担執筆、汲古書院、2020年)ほか |
1971年、京都人の両親のもと大阪府吹田市に生まれ、滋賀県草津市で育った。子供の頃は、近隣の古墳めぐりが趣味だった。思い出深いのは2000年に留学した南京大学での1年。料理が旨くて人が親切な素晴らしい土地だが、武漢、重慶と並んで“中国三大竈(かまど)”と呼ばれる灼熱の夏が辛かった。和歌山は“半島”感が面白く、もの成りの良い豊かな土地。このあたりが、室町時代から戦国時代にかけて巨大な大名権力を生まなかった原因かと思う。